まっているのかと思っていると、豈図《あにはか》らんやその大将が、歳どんであろうとは……
そもそも歳どんなるものは、江戸近在の田舎《いなか》から出て来た小僧だとは聞いていたが、その身許なんぞは、今日が今日まで少しも聞いてはいなかった。
わたしが知ってからの歳どんは、上野松坂屋へ丁稚奉公をした生意気でおしゃらくな歳どんからはじまる。よくあることで、女中と出来合って悶着《もんちゃく》が起ったのを、男の方は何とかいう、あっちの堅気の名主様かなにかが出て、あやまったし、女の方はわたしが頼まれて口を利いてあげただけの縁なんだが、その歳どんが、新撰組の頭《かしら》になっていようとは、全く夢に夢を見るようだ。兄貴がエライのかも知れないが、当人だって、馬鹿ではあの役はつとまるまい。馬鹿どころか、あの子はあの時分から、目から鼻へ抜けるような子だったねえ。働きもあるだろうが、行末が思われる――と、よけいな心配をしてやったが、あの色男が新撰組の頭になろうとは、わたしも思いがけなかったねえ。なにしろ、いい面になったものさ。おかげで、わたしもなんだか急に肩身が広いような気になってしまった。京都へ行ったら、ぜひひとつ、訪ねてみることだねえ、魔除けになるかも知れない。
魔除けといえば、お前さん、いつのまにか、あのいやがらせ[#「いやがらせ」に傍点]の三ぴんやよた者の姿が見えなくなった。笑わせやがらあ、わたしが新撰組の頭と近づきだと知ったもんだから、逃げたんだよ。
お角も、そこで、今までの鬱気《うっき》が晴れて、いい気持になりました。
それから帰るまでのお角さんの身辺には、不思議に例のいやがらせの三ぴんや、よた者が近づきませんでした。それは、お角さんの察しの通り、お角が新撰組の大将となれなれしく口を利いたばかりか、かえって、それを呑んでかかるのに、新撰組の大将が頭を掻《か》いて閉口気味なのを、物蔭から見て取った三ぴんやよた者が、面《かお》の色を失ったというわけであります。
この女は、新撰組を一枚上に行く、途方もない代物《しろもの》だと、尾を捲いて逃げたものと思われる。
前にしばしば言うが如く、お角さんは天下の形勢に暗いし、土方歳三に就いても、歳どんの変形であるとだけしか知らないために、大胆でありました。
それからのお角さんは、全く肩身の広い気持になって、山王様へも晴々しく参詣をして同行の一座をよろこばせ、さんざんによきピクニックを楽しんで、そうして、また、唐崎浜に待たせてあった舟に乗って、大津へ戻って来ました。
その間、全く無事です。三ぴん、よた者、ばくち打、駄折助のたぐいは、影も形も見せなくなりました。
お角さんとしても、新撰組は大した魔除けだと考えずにはおられません。
宿へ帰って見ると、留守中に再三、使の者があって、お帰りになったら早々お目にかかりたいとのこと。
「誰だろう、道庵先生か知ら」
とお角が案じて、その置手紙を読ませてみると、
「おやおや、これは大変、甲州の大旦那がおいでになったんだよ」
甲州の大旦那とは、お銀様の父、藤原の伊太夫のことであります。
百八十二
宇治山田の米友は、当人の望みに任せて、弁信法師をひとり多景島に残して置いて、小舟をもとの長浜へ向けて漕ぎ戻しました。
その帰る路すがら、米友は、世間にはずいぶん変った小坊主もあればあるものだと思いました。御当人自身が、かなり変った人間であることを棚に置いて、弁信というものの存在が、いかにも奇妙に感ぜられてたまらないのです。
しかし、米友が、弁信を竹生島《ちくぶじま》へ導こうとして、誤って多景島へ漕ぎつけてしまったのは、もともと一片の義侠心といったようなものからの出発で、本来の目的でも、予定の行動でもありませんでした。
この男、本来の道程としては、道庵先生のお供兼用心棒として、江戸から中仙道を木曾にとって、上方のぼりをして、ここまで来たというのが本筋なのでありました。それが関ヶ原まで来て、お銀様のために無心され、道庵先生も退引《のっぴき》ならず、この唯一無二の用心棒を割愛して、お銀様の所望に任せたという次第ですが、道庵先生としても、米友を失うと同時に、お角さんを得まして、お角親方一行と、これから上方筋を同行することにして、お角は上の如く大津に宿って、わざわざ八景めぐりをしながら、胆吹山へ紛れこんだ道庵先生の来《きた》り会するのを待ち受けているという次第です。
そこで、米友は当分、お銀様の胆吹王国にいて、その事業の一部分を助ける、という役廻りから、長浜へ下りて来たこともこれで二度目です。最初の時は、新植民地に要する生活要品を買いととのえる荷駄《にだ》の宰領として頼まれて、明るく長浜へ下りて来ました。
今度のは、それと違って、一夜、机竜之助
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