は、「どん」という言葉が、同輩でもあり、敬称になる場合もあるが、関東では「どん」称は目下でなければ使わない。長松どんだとか、おさんどんだとかいう場合でなければ、関東では「どん」称語を用いないことになっている。西郷どんだの、東郷どんだのと、相当の人傑に対して、断じて「どん」称を用いることは江戸にはない。ところが、お角さんは土方歳三に向って、遠慮なく「どん[#「どん」に傍点]」称号を乱発しているし、御当人の土方そのものが、また、この「どん[#「どん」に傍点]」称号を甘受して、あえて悪い面《かお》をしない。
してみれば、お角さんの眼から見れば、土方歳三は、どうしても同輩以下のあしらいであり、土方は、それをそのままで受取らなければならない身分の相違がある。といって、お角さんそのものが、頼朝公の落《おと》し胤《だね》だという系図書もなし、何の因縁で土方をどん[#「どん」に傍点]扱いにするのだか、それは分らないが、存外寛大な土方は、お角が上方見物の途中と聞いて、
「では、京都へ来たらぜひ拙者のところへ寄り給え、三条の新撰組の屯所《とんしょ》と言えば直ぐわかる。だが、隊へ来て、歳どん、歳どんは困るよ、土方先生とたずねて来いよ」
「いやな先生――あんまり弱い者いじめをなさると、松坂屋の一件を素っぱ抜いてあげますよ」
とお角さんが言いました。
百八十
そうすると、土方歳三が丁と頭をうって、
「いや、どうも、古創《ふるきず》をあばかれては困るよ」
と言いますと、お角が、
「向う創ですから大丈夫ですよ」
と答えました。
「あぶないもんだ、お手柔らかに願いたい」
この問答を見ると、土方歳三がいよいよ受身である。よっぽどこの女親方のために痛いところを押えられているように見える。
しかし、お角も心得たものですから、それ以上には立入って冗談《じょうだん》を言いませんでした。以前のことは知らないが、今こうして一代の名士となっている以上、愛嬌の程度までの心安立てならいいが、あんまり深入りしてはいけない、一旦は驚きのあまり、打解けてみても、物の頭《かしら》となっている人には、立てるだけは立ててやらなければ嘘だという世間学が、お角を急にしおらしい女にして、
「では、今日は、これから山王様へ御参詣を致しますから、これで御免蒙ります、あんまり思いがけないところでお珍しくお行会い申しましたものですから、ついつい失礼な口を利《き》いてしまいました、取るに足らない、たしなみのない人間のことですから、御免下さいませ。では、京へ着きましたら早速お伺いさせていただきます、お大切に」
打って返したような折りかがみをして、お角さんが一行を引連れて、山王様の御門前の方へとゆらりゆらり出かけて行ってしまいました。
土方一行も、それから間もなく、村役人を先に立てて、例の修羅場の名残《なご》りの場へと進発し、そこで、一応の検分をしてから、死体を取片づけさせてしまいましたが、ほどなく馬に乗って、大津の方へと急がせて行く土方歳三――沖田総司が一人ついている。
「土方先生、あれは何です、あの伝法肌の女は、あれは――」
「は、は、は」
と、土方が高らかに笑い、
「松坂屋の一件ですか」
と沖田からたずねられて、土方が笑いながら、そうだとも、そうでないとも言いません。
そうだとも、そうでないとも言わないのは、つまり黙認の形です。
たずねてみれば、この連中としてはたあいのないことでした。
土方歳三が、武州日野在から出て、上野の松坂屋へ丁稚奉公《でっちぼうこう》に入れられたのは、十六七の頃でもあったろう。歳三だから、歳どんとして丁稚をつとめているうちに、その女中の一人といい仲になってしまった。
歳三は右に言う如く、小柄で、色が白く、それにお洒落《しゃれ》ときているから、女の方が夢中になって、とうとうお腹がせり出してしまった。そこで、もう袖でも隠せなくなって、切れるの切れないの、死ぬの生きるの、やいのやいのという沙汰《さた》になると、さすが後年の新撰組の豪傑も、生ける空とてはなかった。それを口を利いてやっと捌《さば》きをつけてやったのが、男の方では佐藤という土地の幅利《はばきき》、女の方ではここに現われた女興行師のお角さん。その弱味を抑えられているから、さすがの豪傑もいささかテレている。こういうたあいない話をしながら二人は、湖面から来るなごやかな風に面を吹かせて、大津の方面に向って急がせて行く。なお残された新撰組の隊士は、いったん山王下に留っていたが、徐々に叡山《えいざん》へ向ってのぼりはじめました。
百八十一
一方、山王様へ参詣の道すがら、お角は狐につままれたような感じがしている。
新撰組というから、鬼を膾《まなす》で食うような豪傑ばかり集
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