これに対しては、横槍の入れようもなし、考証の持込みどころもない有様です。おやじがこの松の樹齢一千〇八年を固く信じているのに対して、よたとん[#「よたとん」に傍点]はそれを冷殺しようにも、打倒しようにも、これには自分の方で、それに対して、また反証的に樹齢を証明しなければならぬ。よたとん[#「よたとん」に傍点]もその考証に手がつけられないのです。さすがの物識《ものし》りも苦笑をもってするほか、おやじに一矢酬ゆることができません。その苦衷を知ってか知らずにか、金茶金十郎が、傍らから差出口を試みて、
「よたとん[#「よたとん」に傍点]先生――いかがでござるな、この松の樹齢、一千と八年説に御異議ござらんかな」
「さよう――」
「一千〇八年と申すと、今より何年の前でござるかの」
と金茶金十郎が、頭のよい質問を一つ切り出したものです。
「一千〇八年と申すと、今より一千〇八年の昔でござる」
と、よたとん[#「よたとん」に傍点]からハネつけられて、金茶が頭を掻《か》きました。
「なるほど――こいつは参り申した、その一千〇八年前は如何様《いかよう》の時代でござったか、それを承りたいのでござる」
「さよう――」
そこで、よたとん[#「よたとん」に傍点]は、当然、自分の縄張うちに来たので、頷《うなず》いて胸思案を試みた後、やや反り身になって、
「さよう、今年すなわち慶応の三年は皇紀二千五百二十年じゃによって、今より千年の昔は――さよう――延喜《えんぎ》天暦《てんりゃく》の頃になり申すかな」
「ははあ」
と金茶金十郎が感心して、
「して、それに八年を足し申すと……」
取ってもつかぬ愚問を提出した時に、お角親方の大一座が、松の根方で、ひときわ陽気に囃《はや》し立て、うたい立てました――
[#ここから2字下げ]
志賀、からさきの
一つ松
まつは憂《う》いもの、つらいもの
憂いもつらいも
ここはなぎさの
一つ松
ヨイトコ、サッサノ
[#ここで字下げ終わり]
百七十
お角親方一座の興が、全く酣《たけな》わなる時分に、湖水の一方から、矢のようにこの岸へ漕ぎ寄せて来た二はいの舟がありました。
ひたひたと漕ぎつけて来て、桟橋《さんばし》の際へ素気なく乗りつけると共に、乗組の者が、バラバラと岸へ飛び移ったことの体《てい》が尋常ではありません。
その、岸へ飛びついて来た人体《にんてい》を見ると、野侍のようなのがあり、安直な長脇差風のもあれば、三下のぶしょく[#「ぶしょく」に傍点]渡世もあり、相撲あがりもあり、三ぴんもあり、折助風なのもある。これらがいずれも血眼《ちまなこ》になって、岸に飛びうつって来ると、早くもお角親分の大陽気な一座をめがけて、突進というほどではないが、実は突進も乱入も致しかねまじき気合を含んで、ぞろぞろと取りつめて来たのは、どうも穏かでない空気があって、その穏かでない空気は、お角親方の一行に、微塵《みじん》も好意を持っていない一まきであることがわかります。
これは果して推察の通りで、道中筋から上方《かみがた》にかけて、最初から、道庵の西上を喜ばぬものがあり、お角の乗込みに鬼胎《きたい》を抱いている一味があったのです。
幕末維新の前後は、名分から言えば勤王と佐幕の争いでありましたが、地理的に言えば関東と関西との勢力の争いであるし、もう少し遡《さかのぼ》ると、大阪へ定めた豊臣の勢力と、江戸へ奪って(?)しまった徳川の勢力に対する三百年間の因縁がある。政治的には関東へ取られたが、経済的には、実力的には……文化的には、曰《いわ》く、何々、関以西のある一角には、絶えずその対抗意識が含まれていたものと見れば見られる。いわば、関ヶ原以来の遺恨角力が、王政維新のあたりまで、まだじゅうぶん根を持っていると見れば見らるべき事情はあるのであります。
西と言い、東と言い、ひとしくこれ万世一系の聖天子の王土であるが、そこは凡夫の浅ましさ、事毎に、多少の対抗意識の現われることは、笑止千万と言わねばならないが、ことに笑止千万なる一つの実例は、この道庵と、お角とを、只《ただ》では京大阪の地を踏ませまいという、一味の通謀策略の如きであります。
その以前、関東|名代《なだい》の弥次郎兵衛、喜多八両名士が、聯合軍を組織して西国へ乗込んだ時の如きも、大阪方に於ては、弥次と喜多とを、このまま無事にやり過ごしては、未来永劫、大阪の名折れになる、海道を我物面に、横暴にのさばり返って西上して来る弥次と喜多との聯合軍に、眼にもの見せてやらなければ、大阪の名折れである――そういうところから義憤を起して、大阪を代表して、立ちもし、立たせもしたところの豪傑が、河内屋太郎兵衛、一名を河太郎という人物でありました。
河太郎を押立てて、弥次と喜多との鼻っぱしを取りひしいだ
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