たしかに坂本方面へ向って引返すものに相違ありません。
百六十八
江戸の女軽業師の親方お角は、道庵を待合わせる間の道草として、大津から八景めぐりを試み、この日ちょうど、唐崎浜の一つ松の下へ毛氈《もうせん》を敷いてお弁当を開いておりました。
昨日は舟を一ぱい買切って、げいこ、まいこ、たいこ末社を引具して、八景巡り、瀬田石山の遊覧は終りましたが、今日は引きつづき、舟をこちらへめぐらして、この一つ松の下でピクニック気取りであります。
取巻連は、いずれも大満足で、この女お大尽を下にも置かぬもてなしぶり。お角さんを松の根方の正座に据え、そこへ山湖の珍味を取並べ、例の法界坊まがいの茶人がそそり出て、お角さんの前へ恭《うやうや》しく銚子を捧げて、
「ああら珍しや、酒は伊丹《いたみ》の上酒、肴《さかな》は鮒《ふな》のあま煮、こなたなるはぎぎ[#「ぎぎ」に傍点]の味噌汁、あなたなるは瀬田のしじみ汁、まった、これなるは源五郎鮒のこつきなます、あれなるはひがい[#「ひがい」に傍点]、もろこの素焼の二杯酢、これなるは小香魚《こあゆ》のせごし、香魚の飴《あめ》だき、いさざの豆煮と見たはひがめか、かく取揃えし山海、いや山湖の珍味、百味の飲食《おんじき》、これをたらふく鼻の下、くうでんの建立に納め奉れば、やがて渋いところでまんどころのお茶を一ぷくいただき、お茶うけには甘いところで摺針峠《すりばりとうげ》のあん餅《もち》、多賀の糸切餅、草津の姥《うば》ヶ餅《もち》、これらをばお茶うけとしてよばれ候上は、右と左の分け使い、もし食べ過ぎて腹痛みなど仕らば、鳥井本の神教丸……」
これを、べらべらと言いながら、お追従《ついしょう》をはじめました。
空々しい奴等ではあるが、根がお角も派手商売で、こんなことが好きなんだから、こいつらを思いきり遊ばせて、自分もいい心地で納まり返っています。
そのうちに、げいこが弾き出し、うたい出す。舞子が舞いはじめる。一つ松の下は大陽気の壇場となって、行く人の足を集めます。
陸上を行く人ばかりではなく、湖上を巡る舟も、ここへ来て、この大陽気をながめると舟足をとどめ、棹《さお》をひかえて、それをながめないものはありません。なかには、わざわざ同じところへ舟をつけて、松の枝にともづなをかけて、自分たちも興を共にするつもりになったものもあります。この場合、名木の一つ松を見るというよりも、その松の下の大景気に眼を奪われるの有様でした。
四明ヶ岳を蹴落され、坂本さしてほうほうの体《てい》で下りついて来たよたとん[#「よたとん」に傍点]と金茶も、ちょうどこの時分に、陸路を唐崎浜まで来合わせておりました。よたとん[#「よたとん」に傍点]も、金茶も、お角さんのこの騒ぎを耳にしないではないが、そこは通人のことで、よたとん[#「よたとん」に傍点]の如きは、かえって苦い面をして、田舎大尽のあくどい馬鹿騒ぎ、見たくもないというように、そちらへは振向きもせずに、番所のおやじに向って松の木ぶりと枝ぶりとを賞《ほ》めていると、金茶が、
「いったい、この松ぁ、何年経っている?」
年数の値ぶみを試みたところが、番所のおやじが無造作《むぞうさ》に、
「はい、一千と八年目になりますさかい」
芽生えから自分が守り育てでもして来たような返事をするから、よたとん[#「よたとん」に傍点]がそれを聞き咎《とが》めて、
「一千と八年――千年の松はいいとして、その八年というのは、いったい、何の目のこ[#「目のこ」に傍点]から来てるんだ」
と、松の番所のおやじに向って、とがめ立てをしました。
百六十九
鶴は千年とか、亀は万年とかいって、大ざっぱに老松の齢を千年だときめてしまうことは、非科学的ではあるが、観念的には許されるとして、その千年の下へ、八年がくっついたから、それで、よたとん[#「よたとん」に傍点]が聞き咎めたのであります。
千年は千年でよい、千年の松は千年の松のみどりでよろしいが、一千〇八年という端数がついてみると、相当に数学的根拠と、植物学上の実験を催促しなければならない段取りになったから、よたとん[#「よたとん」に傍点]が聞き咎めると、松の番所のおやじはすましたもので、
「はい、松というものは、千年経ちますると、枝がはじめて地につくものでござりましてな、私は長らくこの松の御番をつとめておりますが、この松の枝があの通り地につきましてから、これで、指折り数えてみると、八年目になりましてな、じゃによって、この松の樹齢は一千と八年になりますさかい」
「そうか」
その説明を聞くと、よたとん[#「よたとん」に傍点]がかえって油揚《あぶらげ》をさらわれたような面《かお》をしました。
さすがのよたとん[#「よたとん」に傍点]も、
前へ
次へ
全138ページ中116ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング