、出て歩かれないのが笑止千万だ――こうなると、彼もたしかに英雄的存在である」
 坂本がこう言った途端に、後ろの方で不意にゲラゲラゲラと笑う声がしました。

         百六十四

 この頓狂な笑い声に、三人の者が驚いて見返ると、ついその足もとの岩角から、ひょっこりと一人の男が現われているのを見ました。
 おや、道庵先生ではないか――と、知っている者は一時、驚かされるほどに風采が似ておりました。
 但しその道庵先生でないことは、頭が慈姑《くわい》でなく、正雪まがいの惣髪《そうはつ》になっている。道庵先生よりもう少し色が黒く――皮肉なところは似ているが、あれよりまた少々下品になっている。それに酔っていることは確かだが、道庵先生のは酒に酔っている、この男は酒よりも、いささか自己陶酔にのぼせ加減で、うわずっている――これぞ誰あろう、一名|四谷《よつや》とんび[#「とんび」に傍点]という一味の通人でありました。
 四谷とんび、略称してよたとん[#「よたとん」に傍点]ともいう。道庵の向うを張って、その上方征伐に相当《あいあた》るべく選ばれた江戸ッ児の一人でありました。いつのまにここへ登っていたか、或いは三人が来る以前に、その岩蔭で昼寝でもしていたのか、とにかく、三人が意気込んで、右のところまで談論を続けて来た時分に、突然、途方もなく締りのない声でゲラゲラゲラと笑い出したものです。
「お前さんたち、買いかぶっているよ、イヤに近藤勇を買いかぶっておいでなさる」
 こう言って、自惚《うぬぼれ》の強い赤ら面《がお》をかがやかせて、のこのこと近づいて来るものですから、こいつ一応の挨拶もなく、突然に横合から人の談論にケチをつけ出す、無作法千万な奴だ、失敬千万な奴だ、と三人の壮士は甚《はなは》だ不興の体《てい》でしたけれども、見れば相当老人でもあり、のぼせ者でもあるらしい。まじめに取合うも少々大人げないと、
「何だ、何です、君は。突然に人の話の中へ喙《くちばし》をいれて、無礼ではないか」
と五十嵐甲子雄が、かりにたしなめてみると、のぼせ者の老人は一向ひるまず、のこのこしゃあしゃあとして、
「お前さんたち、近藤勇を買いかぶっていますよ。実はね、わっしもその近藤勇とは同郷のよしみがござんしてね、あいつは、武州八王子の近いところ、甲州街道筋の生れでござんして……」
 たずねられもしないに、よけいな口を利《き》き出して近づいて来る。五十嵐がむっとして、以前より少々厳しく、
「ナニ、君が近藤勇の同郷であろうとなかろうと、こっちの知ったことじゃあない、それがために近藤の人物が上下されるわけのものじゃあない、よけいなことを言わっしゃるな」
と言いますと、よたとん[#「よたとん」に傍点]先生はのぼせきっているものですから、
「違いますよ、お前さんたち、あんまり近藤勇を買いかぶるから、それで、ついそんなことになっちゃうんでげす、なあに、近藤勇なんて、たいした人間でもなんでもありゃしねえ、あんなのを買い被《かぶ》って、今の時代の寵児《ちょうじ》かなんかに祭り上げてしまうから、こんなことになるんでげす、同郷のよしみで、わっしゃ気恥かしい、なあに、みんなコレですよ、コレで動いているんでげすよ」
と言って、指で阿弥陀様のするように、丸い形をつくって見せて、下品な笑い方をしました。誰も、変な先生だと思わないわけにはゆかないでしょう。仮りにこの男が近藤勇と同郷人として、同郷人ならば相当花を持たせて然《しか》るべきものを、聞かれもしないに、頭から罵倒してかかっている。罵倒を丸出しにしてかかっている変な奴ではないか。

         百六十五

 三人の壮士も、全くこのよたとん[#「よたとん」に傍点]を変な奴だと思いながら、黙ってその形を見ていると、よたとん[#「よたとん」に傍点]先生は、例の阿弥陀様のするような、指で丸い形をこしらえて三人の前へつきつけて、繰返して言いました、
「みんな、コレでげすよ、これで買われて働いているお雇い壮士なんでげすよ。いいかね、今の徳川家には、ああいって人斬り商売をするような人体《にんてい》がないんでげす、ところで、命知らずの無頼者を、金で買い集めてやらせるんでげす。最初、新徴組が出来やした時には、一人前五十両のお仕度金が下され、それで都合五十人の命知らずを集めて、幕府の用心棒としたものでげす、一人頭に五十両、五十人で都合二千五百両――聞くところによりますと、目下は、その新徴組が新撰組となって、専《もっぱ》らその近藤勇に牛耳られているそうでげして、手下も三百人から集まっているそうでげすが、ああして乱暴を働いて、たんまり儲《もう》かるそうでげす。公方《くぼう》から下し置かれる内々の御褒美金てやつが、生やさしいものじゃげえせん、そこへ持って来て、月
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