助なる親分そのものが、自身で出向いて来たのかな。そうだとすれば面白いが、そうでないとしても只の鼠ではない。面を見知り、名を聞きとっておかなかったのが残念だ。それともう一つは鬼だ、鬼の正体だ、土間までたしかに拉《らっ》し来《きた》っていたはずの鬼の正体。多分、それは生捕って来たらしいが、生捕らないまでも、半死半生にして引摺って来たものには相違ない。その正体を見届ける隙がなかったのが、いかにも残念だ。仏兵助という奴には、どっかでまた巡り逢えるかもしれないが、鬼の正体はそうどこでも見られるという代物ではない――それが心残りでたまらない。
 七兵衛は、ただそれだけを残念千万に心得て、あとは悠々たる気持で、走り且つとまって、後ろを見返れば見返るほど、追手の火影と遠ざかるばかりです。
 かくて七兵衛は、鬼の正体に心を残して走りましたけれども、古来、この辺の旅路で鬼の未解決に悩まされたものは、七兵衛一人に止まりませんでした。これより先、南渓子《なんけいし》という人があって、その紀行文のうちに次の如く書きました。
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「出羽の国、小佐川といふ処に至らんとする比《ころ》は未申の刻も過ぎつらんと覚えて、山の色もいとくらく、殊にきのふよりしめやかに雨降りて、日影もさだかには知れず、先の宿までは又三里もあれば、とても日の内にはいたりがたからんや、されど雨中なれば思ひの外に時刻うつらぬこともやあらんと疑ひて、行逢ひける老夫に、先の宿まで行くに日は暮るまじきやと問ふに、眉をひそめ、道をさへいそぎ玉はば行きつきもし玉はんなれど見れば遠国の人々にてぞ、此程は此あたりに鬼出でて人をとり食ふ、初めは夜ばかりなりしが、近き頃になりては、白昼に出て、此迄行かふ者は人馬の差別なく、くはれざるはなし、是迄の道も鬼の出でぬる処なるに食はれ玉はざりしは運強き人々也、是より先は殊さら鬼多し、旅するも命のありてこそ、何いそぎの用かは知らねども、日暮に及んで行き玉はんは危しと言ふ……」
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         百五十九

 当時、南渓子の同行に養軒子というのがありました。鬼が出ると聞くより、カラカラと打笑い、
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「いかに辺土に来ぬればとて、人を驚かすも程こそあれ、鬼の人を取り食ふなどは昔噺《むかしばなし》の草双紙などには有る事にて、三歳の小児も今の世には信ぜざることなり、其鬼は青鬼か赤鬼か、犢鼻褌《ふんどし》は古きや新しきやなど嘲り戯れつつ……」
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 ところが、南渓子も、養軒子も、ほどなくこの嘲弄侮慢《ちょうろうぶまん》からさめて、自身の面《かお》が、青鬼よりも青くならざるを得ざる事体に進んで行ったのは、なんとも笑止千万のことどもであります。南渓子は紀行文の中へ次の如く書きつづけております。
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「暫く来てなほ時刻のおぼつかなければ、あやしのわら屋に入りて、日あるうちに向ふの宿までゆき着くべしやと問ふに、此あるじもおどろきし体にて、旅の人は不敵のことを宣《のたま》ふものかな、此先はかばかり鬼多きを、いかにして無事に行過ぎ玉はんや、きのふも此里の八太郎食はれたり、けふも隣村の九郎助取られたり、あなおそろしと言ひて、時刻のことは答へもせず」
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 南渓子、養軒子は、ここでもまた充分の冷嘲気分から醒《さ》めることができません。
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「同じやうに人をおどろかすものかなと笑ひて出でて又人に問ふに、又鬼のこと言ふ、あやしくもなほをかしけれども、三人まで同じやうに恐れぬるに何とや誠しやかにもなりて……」
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とある。市《いち》に三虎をさえ出すことがある。荒野の人々に三鬼が打出されてみると、南渓子、養軒子も少々気味が悪くなったらしく、額をあつめて語り合いました。
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「養軒、何とか思へる、詞《ことば》もあやし、殊に日足もたけぬと見ゆ、雨なほそぼ降りて、けしきも心細し、さのみ行きいそぐべきにもあらず、人里に遠ざかりなばせんかたもあるまじ、猶《なほ》くはしく尋ね問ひて鬼のこと言はば、今夜は此里に宿りなんと言へば、養軒も同意して、それより家ごとに入りて尋ね問ふに、口々に鬼のこと言うて舌をふるはして恐る――」
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 こうなってみると、さしもの南渓子《なんけいし》も、養軒子も、ようやく面の色が変ってきました。
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「扨《さて》はそらごとにあらじ、古郷《ふるさと》を出て三百里に及べば、かかる奇異のことにも逢ふ事ぞ、さらば宿り求めんとて、あなたこなた宿を請ひて、やうやう六十に余れる老婆と、二十四五ばかりなる男と住む家に宿りぬ」
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 南渓子も、養軒子も、相当
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