の学者でありましたが、とうとう鬼の出現説に降伏して、避難の宿りを求めることになったが、そこで、
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「足すすぎて、囲炉裏《ゐろり》によりて木賃の飯をたきたきも、又|彼《か》の鬼のこと尋ぬれば、老婆恐れおののきて、何事かかき付くるやうにいふ、辺土の女、其言葉ひとしほに聞取りがたくて何事をいふとも知れず……」
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土地が変り、音が変るから、老婆の恐れおののいて物語る節が、二人の旅行家には、どうしても聞き取れないけれども、この老婆が一つ家の鬼婆の変形《へんぎょう》ではなく、善良にして質朴なる土民の老婆であることは確実ですから、旅行家の方で念をおしてたずねてみました。
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「然《しか》らば、その鬼はいかなる形ぞ、額に角を立て、腰に虎の皮のふんどしせずやといへば……」
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百六十
そこで二人の学者は、まず鬼の風采、衣裳の特徴、角とふんどし[#「ふんどし」に傍点]のことから問いただしてみると、老婆に代って、その傍らの若い男が首を振って答えました、
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「左様なものにはあらず」
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と。そこで二人の旅行家が押返して、
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「然らばいかなるものぞ」
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と、つきつめてみると、右の若い男の返事に曰《いわ》く、
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「犬の如くにして少し大なり」
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ここで、やや恰好がついて来たものだから、
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「せい高く、口大なりや」
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とたずねると、
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「そのごとし」
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という返事。
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「さては狼にあらずや」
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と言うに、
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「狼ともいふと聞く」
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という返事――これでようやく鬼の正体がわかってきた。この辺では、狼の一名を鬼というのではない、鬼の別名がすなわち狼であるということが、二人の旅行家にわかりました。
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「殊に人を取食ふものゆゑに、此あたりにては、狼を鬼といふなるべし、古風なることなり、程過ぎて今に至れば、をかしき物語ともなりぬれど、其時の物あんじ、筆の及ぶ所にあらず――」
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鬼は寓話の世界に棲《す》むが、狼は現実の里に出没して、たしかに人を食ったのである。怖るべきこと寧《むし》ろ、鬼以上である。
ここに鬼について、また一説があります。
オニという日本の古語は、隠れたるモノの意味で、仮りにその隠(オン)という字を当てはめてみたそれがオニに転訛し、鬼という漢字を当てはめることになったのである。角を生やしたり、虎の皮の褌《ふんどし》をさせたりすることは、ずっと後世のことで、ただ隠れたるモノが即ち鬼である。そうしてその時代にあっては、若い女というものはよく隠れたがるものであった。家にいる時でも、他人が見えると几帳《きちょう》の蔭などに隠れたりする。外出の時は、被衣《かつぎ》でもって面の見えないようにする。車に乗れば、簾で隠して人に見えないようにする。そこで、女を洒落《しゃれ》にオニ(隠《オン》)と言い、美しい女ほどオニになりたがる。オニ籠れりということは、美しい女がいるという平安朝の洒落であったということです。こうなってみると、むしろ鬼に食われたがる男が多いに相違ない。
仏兵助の親分は、早くも追手を引上げさせてしまい、以前の炉辺に、以前のように、泰然として胡坐《あぐら》を組んで言いました、
「あんな足の早い奴を今まで見たことはねえ、まるで、人だか鳥だかわからなかったぜ。だが、奴、足は早いが、地理を知らねえ、野山へ鹿を追い込むと、里の方へ、里の方へと逃げたがる、あいつは地の理を知らねえから、どっかで行き詰るよ、まあ、焦《あせ》らず北へ北へと追い込んで行くことだ、そうすれば結局、恐山へ追い込むか、外ヶ浜へ追い落すが最後だ、は、は、は」
と、榾火《ほたび》の色を見ながら、こう言いました。
並みいる若い者は、何かなしに恐れ入って、一度に頭を下げて聞いている。
土間を見ると、二頭の狼がいる。一頭は完全に絶息しているが、一頭はまだ腹に浪を打たせている。右の完全に絶息している奴は、思うに、この親分のために、一拳の下になぐり殺されたものらしい。それから、まだ息を存している奴は、手捕りにしての土産物らしい。
若い者たちは、鬼を一拳の下になぐり殺したこの親分の底の知れない腕っぷしと、肝っ玉に、ひたすら恐れ入っているらしい。
百六十一
天めぐり、地は転じて、ここは比叡山、四明ヶ岳の絶頂
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