れて逃げて来た馬子がある。残された馬と共にその鬼と闘っているという旅の者と、ここから応援に繰出した新手の者とが、鬼と闘って、負けるか勝つか知らないが、とにかく、最近にその消息がここへ齎《もたら》されねばならぬことになっている。
 ソレ、人声がやかましく近づいて来た。どっちみち、こうしてはいられない。

         百五十七

 七兵衛は心得て、蒲団《ふとん》の中ですっかり足ごしらえをしました。
 そうして、あたり近所を見廻すと、粗末ながら廻し合羽がある。菅笠《すげがさ》が壁にかけてある。七兵衛はそれを取外《とりはず》しました。時にとっての暫しの借用――という心で、前に積み重ねて置いて、なお蒲団を被《かぶ》って、深く寝るというよりは、隠れるの姿勢におりました。
 そうすると、どやどやと夥《おびただ》しい物騒がしさで一行が、この家に戻って来たのです。
 戸があく、土間がごった返す、炉辺がにわかに動揺《うご》めいてきました。十余人が一時に侵入して来たのです。
 七兵衛は心得きって、いざといえばこの裏戸を蹴破って走り出す用意万端ととのえていながら、なおじっと辛抱して、混入して来た一行の言語挙動に耳を聳《そばだ》てている。
 聞いていると、二人三人、怪我をしたものがあるにはあるらしい。だが、喰われた人はない。ただ、馬が、馬が――というのを聞くと、馬だけは犠牲になってしまったようでもある。
 旅の人も無事らしい。それを労《いたわ》る若い者の声、村人の口々に騒ぐ声、土音|拗音《ようおん》でよくわからないが、鬼を、鬼を――という罵《ののし》り声を聞いていると、どうも、鬼を生捕ってでも来たものでもあるらしい。そうでなければ、鬼を退治して、その死体をでも引摺り込んで来たとしか思われない。
 鬼を捕えて来たのか、そりゃあ大したことだ、生きた鬼を見てやりたい!
 七兵衛も、この際とはいえ、これには全く好奇心を動かさざるを得ませんでした。
 果してこの世に、鬼なんぞというものがあるのか。あればこそだ。現に、それをここへつかまえて来ているというではないか。見たいものだなア、一目見て置きたいものだなア――と焦《あせ》ってみたが、ここで飛び出すのはあぶない。鬼でさえ組みとめた連中の中へ、いくらなんでも縄抜けのこの身は出せない。もう少し辛抱したらば、或いは要領よくそれを見届けて脱け出すことができるかもしれない。
 興に駆られて七兵衛は、ついに蒲団の中を乗出してしまい、一歩一歩古畳の上をいざって、ようやくしきり戸へ近く来て、戸を楯にして透間から覗《のぞ》いて見ると、炉に坐っている旅人というのは、小柄ではあるが、ずんぐりして、がっちりした体格で、風合羽を羽織り込み、頭に手拭を置いて、座右へ長脇差をひきつけている。面は見えないが、その透間のない座構え、これはただものでないと七兵衛は直ちに感づきました。
 一方、土間の方では相変らず、てんやわんやで、鬼を、鬼を――とさわぎひしめいている。七兵衛は、この客人なるものも気にかかるが、鬼というやつの正体をぜひ見たいのだ。そこで、ジリジリと膝が進む時、炉の横座に坐っていた件《くだん》の旅人が、そのとき急にこちらを向いて、その険悪な面《かお》つき、額から頬へかけて、たしかに刀創《かたなきず》がある、その厳しい面をこちらへ向けたかと思うと、
「おい、若衆《わかいしゅ》さん、この向うの座敷にまだ誰かいるのかい」
「えッ」
「誰かいるぜ――確かに」
と言って、自分が座右へ引きつけていた長い脇差を取り上げたものですから、七兵衛が飛び上りました。

         百五十八

 それから第二の動揺が、この一つ家の内外から起りました。鬼をしとめたという一隊が、今度はそれと違った方向へ向けて、まっしぐらに、曲者を追いにかかったのです。追われたのは、申すまでもなく七兵衛。
 しかし、このたびの追われ心には、七兵衛に於て大いなる余裕がありました。
 第一、まずいものながら腹をこしらえてある。焚火と蒲団で相当に温まって、身心共に元気を回復している。身には合羽を引っかけているし、笠も被《かぶ》っている。その他、あり合せの七ツ道具代用の細引だの、鉈《なた》だのというものを、素早く無断借用に及んで来ている。
 それに何よりの足に自信がある。何者がいくら馬力をかけたって、面白半分に敵をからかって逃げ廻ることは自由自在である。かくて七兵衛はまた荒野原の闇を走りました。遥かに続く追手の罵《ののし》る声、松明《たいまつ》の光、さながら絵に見る捕物をそのままの思いで、余裕綽々《よゆうしゃくしゃく》として走りながらも、ただ一つ残念なことは、あの炉辺に横座に構え込んで、常人には気取られるはずのないおれの動静を感づいた彼奴《かやつ》は何者だろう。果して仙台の仏兵
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