来ている。
 それから、難なく渡しを渡って、またこうして走りつづけているうちに、この安達ヶ原へ紛れ込んだのだが、東西南北、遠近高低、すべて無茶苦茶だが、足に覚えがあるによって、ちょっとあれから、こうと、何里どちらへ走って、何里こちらへ逃げた。おおよその見当はつくにはつく。せめて一枚の絵図面でもあれば、ここでこうしてひろげて見るうちに、これからの身の振り方もきまるのだが、絵図面どころではない、命一つをやっと持ち出したようなものだ。ただ、この際、仙台を起点としての自分の足心で標準を定めてみるばかりだ、と七兵衛は、自分の走った程度と、方角を、頭の中へ縦横に線を引いてみて、現在の地点が、仙台からおおよそどの方角に、どのくらい離れているということの測定にかかってみると、突然、
「なあーんだ、ぱかばかしい、ここは安達ヶ原でも、黒塚でもありゃしねえ」
と自ら嘲笑《あざわら》いました。
 どうして、どうして、安達の黒塚なんぞは、もう疾《と》うの昔のことだ――ここは黒塚より何十里、何百里も奥へ進んでいる。奥州へ来て、広い原さえ見れば安達ヶ原だと思い、一つ家《や》がありさえすれば鬼の棲家《すみか》だと想像する自分の頭脳《あたま》の御粗末さ加減に呆《あき》れ返る。
 ここが、安達ヶ原でも黒塚でもないという考えは、七兵衛もようやく自分の頭でわかりましたが、鬼のことがまだわからない。安達ヶ原や黒塚は、自分の頭だけの想像のあやまりだが、鬼が出た! ということは、たしかに、今そこで現実の人間たちの叫びであったのだ。現に、ここに集まっていた者がみな出動したのは、その鬼のためだ。安達と、黒塚と、一つ家は消滅したが、鬼の問題は解消しない。重ね重ね変な境に追い込まれたものだなんぞと考えているうちに、つい、うとうとと不覚の眠りに落ちかけようとする。いや、まだここで寝込んではならないぞと頑張る。

         百五十六

 安達ヶ原の黒塚の地位に就いて、青梅の七兵衛が錯覚を起したのを、そう強く責めてもかわいそうです。明治、大正、昭和の間にかけて、まだ解決しきれない学者の間の問題に「法隆寺再建非再建」の問題がありました。
 聖徳太子の創建し給える大和の国の法隆寺は、日本文化の源泉地であり、世界最古の木造建築ということになっている。これが聖徳太子時代に創建せられて、そのままの保存であるか、その後、和銅に於て再建せられたものであるかという論争は、問題としても、人文史上の由々しき大問題であり、学者としても、論争甲斐のある論争に相違ありません。
 吾人《ごじん》は、右に就いて、明治以来、錚々《そうそう》たる学者博士の意見を読みました。近頃は博士号の権威もだいぶ疑わしくなってはいるが、この法隆寺問題の論争に出没する博士たちは、たしかに博士らしいおのおのの権威を見せて、人意を強くするものがある。
 それらの学者博士たちの勇ましい武者ぶりの間に、ひときわ優れて見える一人の博士がある、喜田貞吉博士という。
 いずれ、件《くだん》の学者博士たちの造詣のほどに優り劣りはないとして、再建論者の第一陣、喜田博士の如きは、武者ぶり特に鮮かで、敵も味方も、一応は鳴りをしずめて耳を傾けざるを得ないほどの武者ぶりであるのです。
 ところがその素晴しい喜田貞吉博士でさえが、安達の黒塚には兜《かぶと》を脱いでいる――すなわち右の喜田貞吉博士は、どうした拍子か、安達の黒塚の所在地は、陸前の名取郡の今の秋保温泉《あきうおんせん》のあたりがそれだと明言してしまったものである。そうすると、仙台の国学者小倉博翁をはじめ、藤原相之助、浜田廉、宗形直蔵というような人たちが、否、黒塚は決して陸前の名取郡ではない、岩代の安達郡であると考証したものである。これには、さすがの喜田博士も参って、神妙に兜を脱いでいる。小倉氏のような隠れたる学者の存在は光であるが、これに対して、神妙に兜を脱いだ喜田博士にも学者らしい率直さを見る。
 そういうような次第だから、仙台からは数百里を隔てた武蔵野の中の貧家に生れて、よし、盗みの方にかけては博士以上の天才とはいえ、学問としては、古状揃えか、村名づくし程度以上に出でない七兵衛が、黒塚の所在に錯覚を起したからとて、その無学を笑うのは、笑う方が間違っている。
 なんにしても七兵衛は、奥州へ来て、広い原をやみくもに歩かせられて、それが一途《いちず》に安達ヶ原であることに心得ていた今までの錯覚を、ここで清算し、その安達ヶ原は当然、仙台より西の部分にあって、自分がとうの昔に卒業している。現に仙台以北、南部領の地点へ足を踏み込んでいる自分の周囲が、安達ヶ原であり得ないことだけは夢から醒《さ》めたが、さて鬼の儀はどうなる。鬼の実在は、すでに第三者の口から確実に証明されているのだ。現に、野原から鬼に襲わ
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