なっし」
「そうだ、そうだ」
「おいおい、みんな起きてくんな、鬼さ出たぞよ、鬼が出て、菊どんの馬さ食うたぞ」
 中にいた若衆が、こう言って奥の方をのぞき込むと、どやどやと四五人の同じような若いのが飛び出して来ました。
 炉辺にあった七兵衛は、最初から熱心にその言語挙動を見ていて、いよいよ化かされ方が深刻になって行くように考えられてたまらない。
 そうこうしているうちに、この内外の若い者は、すべて一団になっておのおの身ごしらえをし、得物得物を持ち、松明《たいまつ》を照らして、外の闇へ飛び出してしまいました。
 鬼はこの一つ家の中になくて、外にある。そうして今し、馬の背を借りて来かかった旅人を襲い、いきなり馬を喰ってしまったらしい。馬子は一たまりもなく逃げたが、馬上の客は、いま勇敢に鬼と戦っているらしい。いったん逃げ出した馬子は、一目散にここまで飛んで来て、新手を募集して、客人の救援に出かけたという段取りになるが、この段取りを考え合わせてみると、そもそもこうまで念入りに八百長を仕組んで、おれ一人を化かそうというはずもないのだから、鬼は事実、外にあって、ここには善良な村民が、腕っぷしの利《き》く若いのを集めて置いて、万一に備える――とまで七兵衛がたどりついているうちに、ハッと気の廻ったことがあります。

         百五十三

 七兵衛がハッと気を廻したのは、我ながら抜かったり、鬼に喰われることばっかり考えて、人に追われる身を考えなかった。
 この現実を夢物語でないとしたならば、いま馬を雇って野を走らせて来たという旅の人は、このおれを追いかけて来る仙台領の追手ではないか。
 そうだそうだ、まさにそうだ。それに違いないのだ。
 仙台では、仏兵助《ほとけひょうすけ》という親分の手で、一旦おれは捕われたのだが、岩切でそれを縄抜けをして、ここまで落ちのびたおれなのだ。仏兵助ともいわれようものが、あのままで手を引くはずはない。
 今、原を馬で追いかけて、途中鬼に捕まって、ただいま奮闘中だというその旅の人は、おれの身の上にかかる追手なのだ。
 そう感づいてみると七兵衛は、
「仙台の仏兵助のために、おれは安達の黒塚へ追いこまれた、仏と鬼を両方から敵に持っちゃあたまらない」
 こう言って苦笑いをしたが、事実は存外落着いたもので、
「さあ、今となって、だいぶ腹がすいてきたぞい」
 勝負はこれから、まず腹をこしらえてからのこと、それには鼻の先へお誂向《あつらえむ》きのこの鍋――これをひとつ御馳走にあずかっての上で……
 炉辺にあり合わす五郎八茶碗をとって、七兵衛がその鍋の中から、ものをよそりにかかりました。
「何だい、これは、食物には違えねえが、異体《えたい》が知れねえ」
 その鍋の中のものが、名状すべからざる煮物なので、七兵衛も躊躇《ちゅうちょ》しました。だが、結句、蕨《わらび》の根だの、芋の屑だのを切り込んだ一種の雑炊《ぞうすい》であることをたしかめてみて、一箸入れてみたが、
「まずい――よくまあ、こうまずいものが食えたもんだ」
 七兵衛自身もまずい物は食いつけているが、この雑炊のまずさ加減には、舌を振《ふる》ったらしい。
「そうだ、奥州は饑饉《ききん》の名所だってえ話を聞いている、こりゃ、饑饉時の食物だ、餓鬼のつもりで有難く御馳走になっちまえ」
 東北大いに餓えたり!
 そりゃ、饑饉ということは、関東にも、上方にもある! あるにはあるけれども、東北の饑饉に比べると、こっちの饑饉はお大名だと、子供の時に聞いたことがある。
 ある人が、三町ばかり歩いているうちに三十五の行倒人《ゆきだおれ》を見たが、その後では数えきれないから飛び越えて歩いた。あるところでは、一つに二百五十人ずつ入れる穴を掘って、次から次と餓死人を埋めていった。一つの領内で、七万八万の餓死人を出しているのは珍しくない。旅人が家を叩いて見ると、一家みんな餓え死んで、年寄ばかりがひとり虫の息になっている。水を飲もうと井戸に行ったが、ハネ釣瓶《つるべ》が動かない。のぞいて見ると、井戸の中が餓死の人でいっぱいであった――
 なんというすさまじい饑饉の物語をよく聞かされた。
 それを思うと、この食物ですら、あだにはならない。眼をつぶってかき込んだが、食べてみるとすき腹へ相当に納まる。
 七兵衛は、無断で、できるだけの御馳走にあずかってしまい、さてこれから追手のかかっている身の振り方だが、こうなってみると、無暗にあわてて走ってみるのも気が利《き》かない。休めるうちに休めるだけ休んで置くがよい。それには――と七兵衛は、若衆《わかいしゅ》が飛び出した次の間に、まだ蒲団《ふとん》がそのまま敷きっぱなしにされてあるのに眼をくれました。

         百五十四

 そこで七兵衛は、草鞋《わらじ》
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