れると、ここへ来るまでには、鬼に喰われるのが当然で、喰われないで無事で来たことが意外であったというようにとれる。
 もしまたこの質朴な田舎男が、仮りに鬼の化け物であるとしてみると、まさにこれから人を捕って喰おうとしながら、表向き、こんな空々しい言葉を吐くのが、もう既に人を喰っている。
 七兵衛は面憎くその男を見直そうとしたが、どうも、憎めない。どう見直しても、鬼がこんな模範青年のような人相に化け得られるはずもなく、またその必要もあるまい。そこで再び、鬼というやつは婆様に化けたがるものである、現に安達の一つ家は、鬼婆アを主《あるじ》としてはじめて有名であり、渡辺綱《わたなべのつな》をたばかりに来た鬼も、婆様の姿をして来たればこそ有効である。世に鬼婆アというものはあるが、鬼爺イというのはあんまり聞かない。まして、鬼がこんな凄味の利《き》かない模範青年に化けたってはじまらないじゃないか。
 でも、無気味な感じは持ちながら、七兵衛は、あんまり遠慮もせずに、炉中へ土足のままふんごんで、あたらせてもらいました。
 真黒い鍋の中で、何かグツグツと煮ている。無論、米ではない、粟でもない、さりとて稗《ひえ》でもない、薯《いも》でもない。七兵衛は、その鍋の中を判断し兼ねていたが、そうかといって、人間の肝を煮ているわけでもないようです。
 そうすると、件《くだん》の男が薪を折りくべながら、
「でもまあ、よく鬼に喰われませんでのし」
 またしても……あまりのしつっこさに、七兵衛グッと癪《しゃく》にさわり、
「鬼には喰われなかったが、若衆《わかいしゅ》さん、安達ヶ原の広いにゃ驚きやしたよ」
「へえ――」
 相当、壺を言ったつもりなのが、先方はかえってキョトンとして、ねっから響かないのであります。
「安達ヶ原は広いねえ、若衆さん、この家の前にあるのが、あれが、名高い黒塚というのでござんすかい」
「へえ――安達ヶ原のこたあ、わし、よく知りましねえが、昔話に聞きやしたがなっし、それは上方《かみがた》の方の話でござんしょうがなっし」
「何だって……」
 あんまり若衆の鈍重ぶりが念入りだものだから、七兵衛の方で、いよいよおどかされ通しです。安達ヶ原と、図星を指したつもりで言ってみても、この鬼の化け物は一向こたえず、それは上方の方の話でござんしょうがなっし、とつん抜けてしまう。そこで、七兵衛が相当突込んで、
「若衆さん、今この一つ家の前で見て来たが、あの人間の喰い散らかし――あの土饅頭《どまんじゅう》が、あれが黒塚というやつではねえのかね」
「ど、どういたしましてなっし」
 さすがに、若い男のやや周章《あわ》てて何か弁明に出でようとした時に、戸外がけたたましくバタバタと烈しい人の足音で、
「カ、カ、カン作どん、オ、オ、オニが出たゾウ」
 必死に戸へすがりついた人の声。

         百五十二

 七兵衛も煙にまかれてしまいました。
 いったい、安達の鬼は外にいるか、内にいるのか、鬼の化け物であるべきはずの一つ家のあるじが、人のいい若者で、かえって旅人をとらえて鬼物語を誘発する。それにいいかげん悩まされていると、今度は鬼が出たといって助けを求むる声が外から起る。これでは、鬼同士が全く八百長芝居をしているようなものだ。
 だが、芝居とすれば、越後伝吉でも、塩原太助でも、立派につとまりそうなこの家の中の若衆《わかいしゅ》は、その声を聞くと、早速立ち上って、戸をあけてやりました。そうすると、その朋輩らしい同じ年頃の若い男が、面《かお》の色を変えて転がりこんで来て、
「とうとう、鬼に出られて、馬さ喰われちゃったでなっし、客人のこと、どうなったかわからねえが、夢中になって逃げて来たぞう」
「そいつは、菊どん、いがねえ、この夜中に、馬なんぞ出しなさるがいがねえ」
「でも、仙台領からの頼みで、どうでも馬さ一匹頼んで飛ばさにゃならねえというお客様がござってなっし」
「そいつぁ、どうも」
「で、鬼さ出るちうて断わり申しただが、鬼さ出ようと、蛇《じゃ》さ出ようと、大切の罪人を仙台領から追いこんだのだなっし、仙台様と南部様の御威勢で、鬼が怖《こわ》いということあるかと、お客人の鼻息がめっぽう荒いもんでなっし」
「そうかや、そいつぁ、どうもならねえなっし」
「夜中に、馬さ出すと、案《あん》の定《じょう》、大っ原で鬼が出やんした――わっしゃ命からがら逃げて来やしたが、お客人のこたあ、どうなったかわからねえなっし」
「それじゃ、どうなったかわからねえで済ましちゃいられねえぞ、客人さ怪我あらせちゃあ申しわけがあるめえなっし」
「そのお客人さ、道中差を抜いて、鬼さきってやしたがね――なかなかお客人も強い人でがんした」
「なんしろ、こうしちゃいられねえ、人を集めて、お迎《むけ》えに行ってみざあ
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