振い起して、その一つ家に向って近づいてみると、ほどなく――右の一つ家のつい眼の前のところへ来て、小流れにでくわしました。
 人間のすむところの家には火がなければならぬと同一の理由をもって、水がなければならない。鬼といえども、口があって、腹がある動物である以上は、水のないところに棲息《せいそく》はできないはずだ。こうなければならないと、七兵衛はその小流れを肯定しつつ軽く飛び越えて見ると、この小流れから一つ家《や》に到るまでの間が、まだ相当の空地になっている。その空地に塚を置いたように、相当の間隔を置いて、幾つもの土饅頭《どまんじゅう》がある。その土饅頭に、一本二本ずつの卒塔婆《そとば》がおっ立っている。
 それはまあいいとして、その土饅頭を数えて行くと、いま掘りっ放しの穴がある。穴の傍らに、極めて粗造《あらづく》りな棺箱が荒縄でからげられて、無雑作《むぞうさ》に押しころがされてある。
 その荒涼さには、七兵衛ほどのくせものも、ぎょっとせざるを得なかった。その粗造りな棺箱の板の隙間《すきま》を、七兵衛が鋭い眼を以て透し眺めると、中にはまさしく人骨と、人肉が、バラバラになって詰め込まれて、すきまからまでハミ出してさえいる。
「鬼に喰われた人間の食い残されだ!」
 遮二無二そう思わせられると、ここでも七兵衛ほどの曲者が、思わず身の毛をよだてざるを得ません。

         百五十

 これが、音にきく安達の黒塚で、この棺箱の中がすなわち鬼に喰いちらかされた人骨だ――事実、今時、そんなことが有り得るはずはないが、想像としては、どうしてもそれより以外へ出ることはできない。
 当然、自分は、その安達の黒塚の鬼の棲処《すみか》へ送りつけられて来たものだ。もう退引《のっぴき》がならない。
 だが、鬼は鬼としても、こうして食い散らかした人間の骨を、御粗末ながら棺箱の中へ納めて置くというところに幾分の殊勝さがある。まして、こうして幾つもの土饅頭、いずれ鬼共が思うさま貪《むさぼ》り食った残骨の名残《なご》りでもあろうが、それにしても、形ばかりでも埋めて、土を盛り上げた上に、卒塔婆の一本も立てようというのが、鬼としては、いささか仏心あるやり方だ。今時の鬼は、なかなか開けて来ている。七兵衛は、こんなような冷笑気分も交って、やがて思いきって、一つ家の前へ進んで、その戸を叩いてみると、中からかえって怯《おび》えたような声で、
「おや、誰だえなア、今頃、戸を叩くのは」
「ちょっとお頼み申します」
「誰だえなア」
「ええ、旅のものなんでございますが、道に迷いましてからに」
「旅の衆かエ――まあ、どちらからござらしたのし」
「ええ、西の方から参りました」
「西の方から、では、小平《こだいら》の方からいらしたな」
 小平が西だか東だか知らないけれども、七兵衛は、この際、よけいなダメを押す必要はないと考えて、
「はい、左様でございます」
「ほんとかなあ、よくまあ、この夜中に、鬼にも喰われねえで……」
「え……」
と、七兵衛がまた聞き耳を立てました。先方のいま言った言葉の意味は、よくまあこの夜中に鬼にも喰われないで、無事にやって来たな――とこういう意味に相違ないから、七兵衛が先《せん》を打たれてしまったように感じました。鬼に喰われずにここまで来たんではない。これから鬼に対面して、喰われるか、喰うかの土壇場《どたんば》のつもりで来ているのだ。
 七兵衛の狼狽《ろうばい》に頓着なく、先方は早や無雑作《むぞうさ》に土間へ下りて来て、七兵衛の叩いた戸を内からあけにかかりながら言うことには、
「よく、まあ、鬼にも喰われずにござらしたのし、お前さん、岩見重太郎かのし」
「いや、どうも、おかげさまで――」
 岩見重太郎呼ばわりまでされたので、七兵衛も内心いよいよ転倒恐縮せしめられていると、無雑作にガラッと戸をあけて、面《かお》を現わした主は、鬼どころではなく、人間も人間、人間の中の極めて温良質朴な男です。
「今晩は……」
「よくまあ……」
「恐れ入ります……」
 充分に身構えをして見直したのですが、やっぱり、山里に見る普通の百姓|体《てい》の若い者以外の何者でもないし、その肩越しにのぞいて見ても、しきり戸棚の彼方に、人骨がころがっているようなことはない。炉にはよく火が燃えている。これが銀のような毛を乱した婆様でもあると、凄味も百パーセントになるが、こんな普通平凡な田舎男《いなかおとこ》では、化けっぷりに趣向がなさ過ぎる――
 と思いながら、七兵衛はこの一つ家の中へ入りますと、男が非常に親切に炉辺に招じながらも、口に繰返して、
「よくまあ、鬼に喰われませんで……」

         百五十一

 おかげさまで鬼に喰われもせずここまで来たことはごらんの通りだが、そうそう繰返して言わ
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