って横へ走っても何日――その間の地理学上、よし絶食しても幾日の間――そういうことの予算をちゃんと胸に畳んで走りもし、逃げもし、変通もしていたのですが、今回は、なにしろはじめての奥州路、その用意をするにも、しないにも、その機会と材料とを絶対に与えられない縄抜けの身となって、着のみ着のままで仙台領を脱走して来たのです。
 燧道具《ひうちどうぐ》と附木《つけぎ》だけは、辛うじて船頭小屋からかっぱらって来たが、それ以外には何物もない。
 常ならば懐中に少なくとも七ツ道具を忍ばせている。その七ツ道具は、多年の経験によって洗練研究しつくされている独特の七ツ道具で、それが商売物にもなれば、旅行用にもなる。
 よしまた、そんなものがなくとも、人間の部落を成す土地をさえ見つけ出せば、七兵衛の本職として、そこから無断で、自由に、相当のものを徴発して来るのは、袋の中のものを取り出すと同様の能力を与えられている身だが、他のものを盗まねば生きられぬという浅ましい本能よりも、盗むべき何物もない荒涼さの方がたまらない。
 ついに日が暮れました。
 足の七兵衛は疲れるということを知らないが、腹の七兵衛は、餓えるということを知っている。ああ、今夜もまた夜通し歩かねばならないのか。
 歩くのはなんでもないが、腹がすいている。それも時によっては、二日や三日食わないで歩けといわれれば歩けないこともないが、そうして至れり尽すところが外ヶ浜ではやりきれない。つまり、行手に希望がありさえすれば、疲労も、飢餓も、頑張《がんば》るだけ頑張って行く張合いというものがあるが、さて、頑張り通した揚句が外ヶ浜ではたいがいうんざり[#「うんざり」に傍点]する。
 さすがの七兵衛も、これにはうんざりしながら、そうかといって、足をとどめようとするなんらの引っかかりもなく、行くにつれて宵《よい》は深くなる。星は相当あるべき晩なのですが、降るというほどではないが、天が曇っている。
 真闇《まっくら》な晩です。
 しかしまた、真闇ということは、決して常人ほどに七兵衛を難渋させる事情とはならない。彼は弁信のような神秘的な勘は持っていないが、多年の商売柄と、それから幾分の天才とで、暗中よく相当に物を見るの明を保有している。そこで暗いということは苦にせずして、怪足力に馬力を加えて行っているうちに、幸か不幸か、遥かに彼方《かなた》にたしかに一点の火を認めました。
 火のあるところに人があり、文明がある、という哲理は、前に田山白雲の場合にも書きました。七兵衛は、その敏感な眼を以て、数町か、数里か、とにかく行手のある地点で一つの火光を認めてしまったものですから、七兵衛ほどの曲者も、
「占めた!」
と叫んで、その怪足力がまたはずみ[#「はずみ」に傍点]出したのはやむを得ません。
 七兵衛の眼はあやまたず、たしかに一点の火光があり、その火光を洩《も》らすところの一つ家《や》がある!
 だが、およそほかと違って、安達ヶ原の一軒家――見つけたことが幸か不幸かわかるまい。

         百四十九

「そうだ、安達ヶ原の黒塚には鬼がいる!」
 七兵衛ほどの代物《しろもの》だが、それと感づいた時に一時は、たじろぎました。
 安達ヶ原といえば、誰だって「一つ家」を思い出さないものはあるまいが、「一つ家」を思い出す限り、その「一つ家」の中に棲《す》んでいるものが「鬼」でなくて何だ。
 鬼は有難くないな。
 とうとう、安達ヶ原へ迷いこんで、鬼の籠《こも》る一つ家へ追い込まれてしまった。
 有難くねえな。
 七兵衛は苦笑いをしてしまいました。いかに科学の力に乏しい七兵衛とは言いながら、いかにまた土地柄が奥州安達ヶ原とは言いながら、田村麿《たむらまろ》の昔ならいざ知らず、今の世に「鬼」なんぞが棲んでたまるか――と冷笑するくらいの聡明さを持たない七兵衛ではないが、こういう時間、こういう場合に置かれてみると、どうしてもその聡明さが取戻せない。ばかばかしいと思いながら、やっぱり、あちらに見えるあの一つ家は鬼の隠れ家だ、そうでなければこんなところに、こんなに一軒家の生活が成り立つわけのものではない。
 七兵衛は、鬼の存在を、事実に於て否定しながら、想像に於て、どうしても絶滅を期することができない。
 しかし、この際に於ては、鬼であろうとも、夜叉であろうとも、取って食われようとも、食われまいとも、あの一つ家を叩いてみるよりほかはない。まして自分として、鬼とも組もうというほどの力持ちではないが、なにもそう鬼だからといって、弱味ばかりを見せていていい柄ではない。おれも武州青梅の裏宿七兵衛だ。安達の鬼が出て、食おうとも言わない先から逃げては名折れになる。
 ここで、はじめて七兵衛は、鬼に対する一種の敵愾心《てきがいしん》と、満々たる稚気とを
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