三日間の後に帰ると言った田山先生を、この船で待受けると言った約束は残っている。
さすがにこれだけの理由と事情とが、一時の癇癪《かんしゃく》を抑えるだけの力を持っておりました。
それに、もう一つ――いろいろ自分を船で引廻してくれる、あのお松さんという娘――あの人はいい人だ、あの娘さんだけには断然、好感が持てる。
こんなことを考えているところへ、扉をコツコツと叩いて、一人の小坊主が、お盆を目八分に捧げて突然入って来たものですから、柳田平治も多少驚きました。
平治が多少驚いたのに頓着せず、右の小坊主は、ちょっと頭を下げて、それからお盆を恭《うやうや》しく平治の前の畳の上に置き、そうしてまた恭しく平治に一礼して、無言で入って来て、無言で出て行ってしまいました。
平治として、百物語の一ツ目小僧にお茶を運ばれたような思いがしないではありません。
変な小坊主だ、坊主頭に、ちょっぴりと毛を置いて、着ている服は紅髯《あかひげ》のとは様子が違うし、目玉、髪の毛も青くはないが、やっぱり我朝のものではない。変な奴ばかり集まっている船だ。
もちろんこれは、舟の乗組の一人、聾《つんぼ》にして唖《おし》、イエスキリストを信ずること深き支那少年|金椎《キンツイ》であったことを、柳田平治はまだ知りませんでした。
百四十七
その時分、青梅《おうめ》の裏宿の七兵衛は、例の怪足力で出羽奥州の広っ原のまんなかを、真一文字に歩いていたのです。
旅に慣れきった七兵衛も、これは広い荒野原だと、呆《あき》れずにはいられません。
同時に、これもやむを得ない、自分は今、名にし負う奥州の安達ヶ原の真中を歩かせられているのだ。
安達ヶ原だから、広いのもやむを得ない。しかし、こうして覚えのある足に馬力をかけてさえいれば、たとえ安達ヶ原であろうと、唐天竺《からてんじく》であろうと、怯《おく》れを見せるがものはない。ただ、今まで自分の経験に於てはじめて見る荒涼たる広っ原だと、多少の呆れをなしたもので、退倒を来たしたわけではないのです。
安達ヶ原だから広い。その広い安達ヶ原を歩かせられていると観念してみれば、いまさら広いことに呆れるというのも知恵のない話だとあきらめて、せっせと足に任せて歩いているが、太陽がようやく自分の背の方に廻ったことに気がつくと、さあ、今晩の宿だ。東海東山の旅路では、どう紛れこんでも、何かある。山神村祠か山小屋、瓜小屋の類《たぐい》を、どこかの隅で見つけないことはないのだが、奥州安達ヶ原とくると、ないといえば、石っころ一つない――土を掘って、穴を作って寝るか、木の上へ枝をかき集めて巣を作って眠るか。
いったい、この安達ヶ原というやつは、どこで尽きるのだ。
七兵衛は歩きながら、こういう疑問をわれと自問自答してみましたが、七兵衛の地理学上の素養が、この際、それと明答を与えてくれませんでした。
それそれ、奥州の涯《はて》は外《そと》ヶ浜《はま》というところだと聞いている。してみると、この安達ヶ原を通り抜けると、外ヶ浜へ出る――外ヶ浜はいいが、浜となってみると、それからは海で、そこで陸地が尽きるのだ。安達ヶ原を乗切るのはいいが、乗りきって海へ出てしまったんではなんにもなるまいではないか。そのくらいなら、ドコかで方向転換をしなければならぬ。
方向転換の手段方法として、方位方角の観念だけは、七兵衛の経験と感覚が、その用を為《な》すに充分である。どう間違っても、天に日があり、地に草木がある限り、東西南北の観念をあやまるような七兵衛ではないが、しかし、東西南北がたよりになるのは、そのうちのどれか一方に目的がある場合に限るので、東西南北いずれの方へ出たら近路につけるかという観念のない時には、東西南北そのものが指針とはならないのです。
長州の奇傑|高杉晋作《たかすぎしんさく》は、「本日東西南北に向って発向仕り候」と手紙に書いたそうだが、最初からそういう無目的を目的として発向するなら是非もないが、少なくとも今の場合の七兵衛は、いかに生来の怪足力とはいえ、歩くことのために歩いているのではない、どうかして無事に人里に出たいものだ、正しい方向に向って帰着を得たいものだ――と衷心に深く欣求《ごんぐ》して、ひたぶるに歩いているのです。
東西南北のいずれを問わず、ともかく何かひっかかりのある地点へ出てみたいものだと歩いているのです。ところが、やっぱり原は呆れ返るほど広い。
「安達ヶ原は広いなア――」
と七兵衛が、今更の如くにまた呆れた時分に、日は野末《のずえ》に落ちかかりました。
百四十八
常の七兵衛ならば、足に於て自信があるように、旅に於ても、その用意のほどに抜かりはありませんでした。
たとえば、この行程幾日、もし間違
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