て、ものを言いかけましたから、
「はい、さようでございます」
とお松が答えました。
「拙者は、田山白雲先生から頼まれまして、二人の人を送ってまいりました」
「それはそれは、御苦労さまでございます、どうぞ、それからお上りくださいませ」
 無名丸の方でも、篝《かがり》を焚き、梯子を投げかけてくれたものですから、その時バッテイラの舳先にいた短身長剣の男が、櫓《ろ》を控えてテレきっているマドロスを促して、
「マドロス君――君さきに上り給え、そうだ、萌《もゆる》さん――君、マドロス君、萌さんをおぶって上り給え」
「キマリ悪イデス」
 マドロスが、いやに尻込みするのを、短身長剣が、
「きまりがいいも悪いもない、君、そのままで萌さんをおぶって、早く上り給え」
「デハ――もゆるサン……」
 マドロスが無恰好の背中を向けると、毛布を頭からすっぽりかぶったままの兵部の娘を、短身長剣が押しつけるようにして、マドロスの背中にたける[#「たける」に傍点]と、やむことなく、それをおぶい、それにおぶさって、二人はまずバッテイラから本船に乗り移る。出でむかえて見ている水夫共は、苦々しい面をして睨《にら》みつけているが、さすがに、それをぶちのめす者もない。お松だけがかいがいしく、
「マドロスさん、あなたにも全く困りものです、みんながドノくらい心配したか知れやしません、まあ、ともかく、わたしの船室へいらっしゃい、委細をお話ししてから、船長様へ、わたしがお詫びをしてあげます」

         百四十四

 最後にバッテイラから、本船に上った短身長剣――柳田平治は、
「では、君たち、あの小舟の始末を頼むよ」
と言い捨てて、続いて船室へと導かれて行こうとすると、そこへ、いつのまにか檣《ほばしら》の上から下りて来た清澄の茂太郎が立ち塞がって、
「君――田山先生は帰らないの」
「あ、田山先生はな……」
と柳田平治は、この少年のために甲板の上に暫く抑留の形となって、
「あとから帰るよ」
「では、七兵衛おやじは――」
「七兵衛おやじ――そんな人は知らんよ、そんな人は知らないけれど、田山白雲先生は、もう三日したらこの船に戻られるはずだ」
「そうですか――さあ、その三日のうちに、七兵衛おやじが見つかればいいが……」
 柳田平治は、この少年の、ませた口の利《き》きぶりを怪しむのみではない。その後生大事に左の小脇にかいこんでいる何物をか、よく見ると、それは一箇の般若《はんにゃ》の面に相違ない。そこでなんだか一種の幻怪味に襲われながら、
「それは、見つかるだろう」
「そうかしら、あたいは、どうもそれが覚束《おぼつか》ないと思うんだが」
「見つかるよ、心配し給うな」
 柳田平治は、七兵衛おやじの何ものであるかを知らない。また、この少年の何ものであるかを知らない。だが、田山白雲が、この二人の駈落者のほかに、まだたしかに尋ねる人があるらしいことだけは、相当に合点《がてん》している。その者がいわゆる七兵衛おやじなる者だろうか。果して田山白雲が、この二人の駈落者を突留め得た如く、七兵衛おやじなるものを捕え得るかどうかということには、全然当りがついていない。しかし、この舟の者が、こうまで心配していることを見計らって、相当の気休めを言ったつもりなのだろうが、それを肯《うけが》わない清澄の茂太郎が、
「そうはいかないよ、君、そう君の考えるように簡単に見つかりませんよ、七兵衛おやじは……」
 意外千万にも、このこまっちゃくれた少年はこう言って、柳田の一片の好意を否定してかかりましたから、ここでも柳田平治は、ちょっと毒気を抜かれて、
「ナニ、つかまるよ、田山白雲先生は豪傑だから、直ぐ捉まえて縛って連れて来るよ、安心し給え」
 こう言うと、この幻怪なる少年が、いよいよ承知しませんでした。
「君、それは違うよ、田山先生は、マドロス君とお嬢さんを捉まえに行ったのは本当です、あの二人は駈落者《かけおちもの》なんだから、それを捉まえて逃さないように、場合によっては縛っても来ようけれど、七兵衛おやじは捉まえに行くんじゃない、探しに行ったんだよ」
「そうか、それにしたって、大したことはないよ」
 この幻怪な少年に抑留されたために、柳田平治は殿《しんがり》となって、通ろうとしたお松の船室への行方を見失ってしまいました。
「キャビンへいらっしゃい、案内してあげます」
 それを心得た清澄の茂太郎は、案内顔に先に立ったが、
「その刀、持って上げましょう」
 甲板から船室へ下るには、つかえそうな長い刀。
 茂太郎も、最初から、その長い刀に興味を持っておりました。

         百四十五

 それから、マドロスと、兵部の娘とは、体《てい》のいい監禁を施して置いて、その夜は一晩無事に寝《やす》み、翌朝、お松が柳田平治を案内
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