る出鱈目の用意にとりかかった時、はじめて下から音声がありました。
「茂ちゃん、もういいかげんにして下りていらっしゃい」
その声は、聡明なる響きを持つ若い女の声でありました。
百四十二
下から婦人の声で呼びかけられて、清澄の茂太郎は、
「お松さんですか」
「茂ちゃん、下りていらっしゃい」
「お松さん、もう少し――」
「夜露にあたると毒ですよ」
「お松さん、あたいは、すいきょうでこうしているんじゃないのです」
「何でもいいから、もう下りていらっしゃい」
「まだ下りられません」
「どうして」
「あたいの、ここへ上っているのは、物見のためなんです」
「暗いところで何が見えます」
「天には星の光が見えます――北斗七星の上に動かない星があります、右は牡牛座で、左は馭者座《ぎょしゃざ》でございます、で、頭の上はカシオペヤでございます。カシオペヤは、エチオピア王の王妃で、お喋《しゃべ》りでございました――と駒井の殿様……ではない、船長様が教えて下さいました。ですが、あたいは今晩は、その星をながめる目的だけにここへ上ったのではないのです、ねえ、お松さん、あたいは物見のために、今晩はここへ上って、こうして人を待っているのですよ」
「誰を待っているのですか」
「いろいろの人を待っているのです、だが、いくら待っていても帰らない人があります、待てばそのうちには帰る人もあります、やがて眼の前へ直ぐに帰って来る人もあります。その第一の人は弁信さんで、あの人はいくら待っても容易には戻ってくれまいと思います。次は七兵衛親爺です、七兵衛親爺はいま直ぐというわけにはまいりませんが、待っていさえすれば、そのうちには帰って来ます。第三の人は、即刻只今、戻って来そうですから、それをあたいは、この檣《ほばしら》の上でお星様の数を数えながら、歌をうたって、待っているのです。皆さんはただ、わたしが道楽でこうしているとばっかりごらんになるかも知れませんが、これで待つ身はなかなか辛いのです」
「茂ちゃん、生意気な口を利くのではありません、誰がこの夜中に、ここへ戻って来るのですか」
「マドロス君です、それから、お嬢さんの萌《もゆる》さんです、この二人は今晩にもここへ戻って来る――あたいの頭ではどうもそう思われてたまらないから、それで、こうして遠見の役をつとめているんです」
「そんなことがあるもんですか、この夜中に、あの人たちが……」
「ところが、どうです、お松さん、そらごらんなさいませ」
「どうしました」
「そら、バッテイラが戻って来ます、海の上を真一文字にバッテイラが、こちらへ向って来ます――バッテイラの舳先《へさき》には、カンテラが点《つ》いています」
「本当ですか」
「本当ですとも――お松さん、あたいの眼を信用しなさい」
と清澄の茂太郎は、海の彼方《かなた》の万石浦《まんごくうら》の方を見つめながら言いました。
茂太郎から、眼を信用しろと言われると、お松もそれを信用しないわけにはゆきません。茂太郎だの、弁信だのというものの五官の機能は、特別|誂《あつら》えに出来ているということを、日頃から信ぜざるを得ないのです。だが、この夜中に、あの駈落者の二人が、舟で舞い戻って来るとは考えられない。
そこで、半信半疑で、お松も暗い海の面をながめやりました。
百四十三
だが、ほどなく、茂太郎の予告の確実性を、事実がよく証明してくれました。
漁船の中を押しわけて、万石浦方面から飛ぶが如くにバッテイラが漕ぎつけられて来るのは、その舳先のカンテラの進行だけでもよくわかる。
それと知って、船の乗組は一度に動揺しました。
「なに、マドの奴が帰って来たと、よく面《つら》を面と戻って来やがった、今度こそは、とっつかまえて、ぶっちめろ」
さすがに訓練されたこの船の水夫たちが、手ぐすねを引くのも無理のないところであります。
お松は、それをなだめるのに力を尽しました。
「たとえ、あの人が悪いにしても、戻って来たからには、きっと、後悔をして、お詫《わ》びをするつもりで来たのでしょう、それを、いきなり手込めにはできません、船長様の御裁判を仰いで、それから処分をしなければならないのです、皆さん、決して、手荒なことをなさいますな」
ほどなく船腹へ漕ぎつけられたバッテイラには、紛うかたなきマドロスがいる。兵部の娘らしいのが面《かお》を蔽《おお》うて寝ている――
「田山先生」
と、お松が一番先に出て、このバッテイラを迎えると、当然、保護して来たと思われる田山白雲らしい姿も、声もないのが、やや異常に感じさせました。
「この船は、駒井甚三郎殿の無名丸でございますな」
容貌|魁偉《かいい》なる田山白雲の姿の見えない代りに、短身長剣の男が一人|舳先《へさき》に突立っ
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