の俗調のうちに、かぎりなき哀音がありました。
感傷が唄をうんだのか、唄からまた更に感傷が綻《ほころ》び出したのか、右につづいて清澄の茂太郎は唄い出しました、
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一つとやあ
柄杓《ひしゃく》に笈摺《おいずる》
杖に笠
巡礼姿で
父母を
尋ねようかいな
二つとやあ
二人で書いたる
笠じるし
一人は大慈の
神だのみ――
悲しいわいな
三つとやあ
三つの歳には
捨てられて
お父さんや
お母さんの
面《かお》知らず――
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つまり、ありきたりの巡礼唄を無造作にここまでうたい来《きた》ったのですが、急にまた歌と調子とを一変した茂太郎は、
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あたたかく
握り合う
その手がないので
私はひとり
合掌して
長い黙祷に沈むのです
やさしく
笑《え》みかわす
その瞳がないので
私はひとり
瞑目《めいもく》して
涯《はて》なき想念に耽《ふけ》るのです
ついに
めぐり逢えない
私の魂は
…………
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こういう詩を高らかに吟じ出したのですが、その声は、ひとり演説の時に比べて、はるかに晴れやかなものになっていました。内容が感情をよそにして、口調に左右されるまでのことですから、悲しい歌を、喜びの調べもてうたうこともある。喜びの唄を、かなしみの曲でうたうこともある。こうなり出すと、音声そのもののために、歌の内容も本質もめちゃくちゃにされてしまいます。ただ、音声そのものの有する交錯と魅力だけが、時を得顔に乱舞する。
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皆さん
イエスキリストは
よみがえりました
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茂太郎は器量一杯の声で、突然かく叫び出すと共に、例の般若の面を、また、しかと小脇に抱え直して、高いマストの上から、船の甲板の上をのぞき込むように見下ろして、
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ごらんなさい
この帆柱の下で
金椎《キンツイ》さんが
イエスキリストに向って
祈りを捧げています
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百四十一
今まで、海と空とを水平に見て、唄いたい限りをうたっていた清澄の茂太郎が、急に下の方の甲板を見下ろして、
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金椎さんは
イエスキリストを
信じています
あの人は黙って働きます
口が利《き》けないからです
金椎さんは
驚きません
耳が聞えないからです
ですけれども
あの人は
イエスキリストを
信じています
働くことのほかには
聖書を読み
聖書を読むことのほかには
祈りを上げています
ごらんなさい
この帆柱の下で
いま金椎さんが
イエスキリストに
祈りを捧げています
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この少年の眼が特にすぐれていて、夜の空で、肉眼では見難い星の数を苦もなく数えることは、以前に述べたことがある。
その眼で――今、暗い中空から燈火《あかり》のない甲板の上を見下ろすと、なるほど、そう言われてみるとその通り、一人の小さな人体が跪《ひざまず》いて、一心に凝固《こりかた》まっている形が、ありありと認められる。
よく見ると、それは例の支那少年の金椎でした。金椎は、いま茂太郎によって紹介された通り、この船の中の乗組の一人で、救われたる支那少年です。
茂太郎が帆柱の上でジンド・バッド・セーラを唄い出した時、或いはその以前から、ここに跪いて、こうして凝り固まっていたものに相違ない。
今、改めて、帆柱の上からこうしてけたたましく存在を紹介されても、更に動揺するのではありませんでした。ひざまずいて凝《こ》り固まっている形は、少しも崩れるのではありませんでした。
その時に、マストの上の茂太郎が、また前の姿勢に戻ってうたい出しました。
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留《とめ》の地蔵様
つんぼで盲目《めくら》
いくら拝んでも
ききゃしない!
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せっかく紹介しても紹介し甲斐がない。宣伝を試みても宣伝甲斐がない。我等うたえども、彼踊らず、です――下の凝り固まりがいっこう動揺しないものですから、茂太郎はあきらめてこういうふうに開き直ったのですが、それとても、イエスキリストを祈っている人に対しての当てつけでもなければ、御利益《ごりやく》の少ない地蔵様に対する冒涜《ぼうとく》でもない。歌を詩に直し、詩を歌に直し、もしくは、韻文を散文に直す一つの技巧――平俗に言えばテレ隠し、むずかしく言えば、唐代に於て「詩」が「詞」となり、「填詞《てんし》」ともなり「倚声《いせい》」ともなるその変化の一つの作用と見てもよろしい。
檣上の小宣伝家は、相手が唖《おし》であり、聾《つんぼ》である――或いは聾であるが故に唖であり、唖であるが故に聾――どちらでもかまわないが、これは相手にはならないと見て、また開き直って、次な
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