また、あの船長様のお船で始まったよ、船長様のお船には珍しい活発な男の子が一人いて、よく歌い、よく踊る、ということはこのごろ、港の評判になっておりますから、こう突然に夜中に高い声で、突拍子もない音調が聞え出しても、誰も特に驚かされるものはなく、また始まった! といって、いやな顔もしないで、かえってその出鱈目に聞き惚れようとする気色ありげに見えるくらいです。まず、
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ジンド・バッド・セーラ
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を繰返してから、やがて、音調が一変して、
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皆さん――
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と演説口調になるのです。聴き手を前に置いての演説ではなく、ただ無意識に、天地と物象とに向って呼びかけたくなって、かく叫び出すのも、この子供の出鱈目の一つの形式なのであります。
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皆さん
ジンド・バッド・セーラを御存じですか
あれはアラビヤの国の
船のりです
一生のうちに
幾度も船で
大海へ乗り出して
命とつり替えに
すばらしい宝を
たくさんに取って帰りました
マドロス君が
よくその話を
知っています――
あの話は
たまらないほど
面白い
あとを聞きたい
まだまだ
一千一夜の間も
語れば語り尽すほど
面白い話があります
ところが皆さん
マドロス君のやつ
駈落《かけおち》をやり出してね
この船を逃げ出したものですから
あとを聞くことが
できません
マドロス君という奴は
だらしのない奴です
憎い奴です
そこで田山白雲先生が
あれをつかまえに
おいでになりました
だがお嬢さんも
よくない
罪はどちらが重いか
それはあたしは知らない
バツカ、ロンドン、ツアン
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文句として見ると出鱈目の散文に過ぎないけれども、この子供の咽喉《のど》を通して聞くと、歌になり、詩になって現われるのです。
百三十九
マストの上の茂太郎は、誰も聞き手のない出鱈目、喝采《かっさい》の反響の起らない演説を、声いっぱいに続けています。
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さて皆さん
田山白雲先生は
必ず
あのマドロス君を
とっつかまえて
戻ると
私は固く信じているのです
マドロス君の奴
田山先生に
会っちゃあかないません
だが
七兵衛おやじの方は
おそらく田山先生でも
つかまえることは
できないだろうと
私は考えている
七兵衛おやじは
容易には
この船へ
戻っては来まい
と思われる
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こましゃくれた言い方ではあるが、その咽喉は澄みきっているから、聞きようによっては、詩を朗吟するように聞きなされて、静かに耳を傾けていると、決して悪感《あっかん》は起らない。
だから、この船の内外でも、茂太郎の出鱈目《でたらめ》がはじまると、最初のうちは苦笑したものですが、今ではそれがはじまると、かえって自分たちが鳴りをひそめて、そのうたうだけを歌わせ、聞けるだけを聞いてやるという気になって、わざと静まり返るようにもなっている。そこで、このごろでは、茂太郎は、その壇場を何人にも乱されることなく、ほしいままに占有することを許された形になっている。
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マドロス君のような
だらしない奴でも
また憎めないところがある
戻って来れば
私は悪い気持がしない
七兵衛おやじが
当分戻れないと
考えると悲しい
悲しいのは
そればかりじゃない
たずねて
わからない人が
幾人もある
逢いたいと
思うけれども
逢えない人が
この世に
幾人もある!
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こう言って、茂太郎は、行住坐臥の間に、常にその小脇にかいこんでいる般若《はんにゃ》の面を、ちょっとゆすぶりました。
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わたしは
弁信さんに逢いたい
わが親愛なる
盲法師《めくらほうし》の
お喋《しゃべ》り坊主の
弁信よ
甲州の上野原で
別れてから
海山はるかに
行方がわからない
弁信さん
お前は今
どこにいるんだい
逢いたいなあ
弁信さん
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朗徹なる童声のうちに、ここで幾分かの感傷が加わりましたが、やがて、調子がうつって、在来の俗謡になりました。
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九つやあ
ここで逢わなきゃ
どこで逢う
極楽浄土のまんなかで……
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百四十
最初の、ジンド・バッド・セーラは単に音頭でありました。なかごろのは演説の変形した散文詩でありました。最後に至って、節調を全うした俗謡のうちの数え唄になったのです。
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九つやあ
ここで逢わなきゃ
どこで逢う
極楽浄土のまんなかで……
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これは、俗調ではあるけれども、音節が出来上っている。それを明朗にうたい出したのですが、そ
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