、ムキになって鳥を追うものですから、弁信が、
「米友さん――鳥が驚かないのが人の住まない証拠です、島が小さくて、畑を作るべき土地も、面積もないから、人が住まないのです」
斯様《かよう》に弁信が断定を下しながら、米友を先に立てて行くうちに、米友がまたも叫び出しました、
「弁信さん――お前の言うことは、どうもあんまり当てにならねえ」
「どうしてですか」
「お前は、この島に人が住まねえと言ったが、これこの通り、ちゃんと、人の住んだあとがある」
「え?」
「これ見な、この岩の一角を切り拓《ひら》いて、ちゃんと人間の住居《すまい》がこしらえてある、これ見な、やあ――木魚があらあ、お経の本があらあ――鉦《かね》太鼓があらあ……」
米友は自ら好奇をもって進入したところには、岩に沿うているけれども洞穴ではなく、たしかに人間のむすんだ草の庵《いおり》があるのです。
百三十七
弁信の人が住んでいないと言ったのも、米友の人が住んでいると証明したのも、どちらも誤りではありませんでした。
その草の庵には、過去に於て、人の住んでいた痕跡は充分ですが、現在に於て、人の住んでいないという証拠もたしかです。
米友は遠慮なく、中へ入って調べてみると、米塩があり、炊爨具《すいさんぐ》があり、経机があり、経巻があり、木魚があり、鉦がある。たしかにここで、或る期間、行いすましていた修行者があったのだ。
「南無妙法蓮華経と書いてあらあ」
机の上の経巻を取り上げた米友はこう言って、また投げるように机の上へさし置いた時に、縁に腰かけて休んでいた弁信は、何と思ったか、頭高に負いなしていた琵琶を、えっちらおっちらと背中から取卸してかたえに置くと共に、自分は腰かけたままで、つくづくとものを考えさせられているもののように、首低《うなだ》れてしまいました。
その間に米友は、いっさんに後ろの高い巌角の上にはせ登って、そこに突立って、琵琶の湖水の展望をほしいままにしました。
「素敵だなあ! 豪勢だなあ!」
と、方向を物色することは忘れて、風景の大観に見惚《みと》れてしまったようです。
米友は、久しく海を見ませんでした。この道中は名にし負う木曾街道でしたから、海というものを眺める機会があろうはずがない。ゆくりなく、尾張の名古屋城の天主閣へ登った時、海が見えないとは言わないが、海を見るより鈴鹿峠の山を遠く眺めて、歯ぎしりをしました。
今日只今ここに立って見ると、見ゆる限りは水です。この水は潮ならぬ海とはいうけれども、潮の有ると無いとを論ぜず、米友の眼では満目の海を眺めて舌を捲いたが、詠嘆の次に来《きた》るところのものは伊勢の海の風光でした。伊勢の海以来、米友は海を見たことがない。海を見たことがないとは言えないけれども、伊勢の海だけが、生涯のうち全く忘れがたなき海の印象として残されている。
ことにあの、大湊《おおみなと》の一夜――あの時に、あの晩に、お君を擁護して大湊の与兵衛の舟小屋をたずねなければ、こういうことはなかったのだ。あれがああなって、ああいう義理で、あの旅の武士のために、危機を冒してあの大湊の与兵衛の舟小屋をたずねなければ――
米友は物を見ると聯想が早い。米友のは聯想が忽《たちま》ち混線となる、混線がやがて無差別となる。一時はすべての若い女がみんなお君の姿に見えたことがある。今や琵琶の湖も、伊勢の海も、米友の頭の中ではごっちゃになり、今の時も、大湊の一夜の時も、差別がつかなくなってしまいました。
だが、本来は馬鹿でないこの男は、忽ち醒《さ》めて、そうして、確《しか》と湖水の四方の陸と島とを弁別してから、以前の庵のところに立戻って来ると、弁信法師は以前のままの姿で首低《うなだ》れて考え込んでいましたが、やがて言いました、
「米友さん、わたくしは暫くひとりでこの島に留まりますから、あなただけお帰り下さい、帰って胆吹山の皆さんに、よろしくお伝え下さい」
百三十八
牡鹿半島《おじかはんとう》の月ノ浦に碇泊している駒井甚三郎が新規創造の蒸気船「無名丸」の、檣《マスト》の上の横手に無雑作に腰打ちかけて、高らかに、出鱈目《でたらめ》の歌をうたい込んでいるのは清澄の茂太郎。
今晩は星の夜です。最初のうちは無言に星の数を数えていましたが、天文に異状なしと認めて、それから例によって出鱈目の歌にとりかかりましたのです。
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ジンド・バッド・セーラ
ジンド・バッド・セーラ
ジンド・バッド・セーラ
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これを、幾度か声高らかに、高いマストの横手の上で唱え出したものですから、静寂な石巻湾の天地に響き渡りました。
あたりにもやっている船でも、港の漁家でも、このごろはさして、それに驚きません。
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