ちな、弁信さん、お前さっきから目も見えねえくせに、方角が違うの、この分では島へ着けないのと、ひとりぎめでやきもき言っているが、論より証拠だ、見な、島が見えるよ、つい、その鼻の先に、立派な島が浮いてるよ」
「えッ――島がありますか」
「見な――と言ってもお前にゃ、見えねえんだな、おいらのこの眼で見て間違えがねえ、そら、ちゃんと、この指の先に島があらあ」
米友が指さす前には、たしかに蓬莱《ほうらい》に似たような島が浮んでいることは間違いがないのです。それは雲の影とあやまるにはあまりに晴天であり、陸岸の一部と見るには輪郭が鮮かに過ぎる――指さす目的物は見えないが、弁信が全く小首を傾げてしまいました。それは、今まで信じ切った自分の勘というものに自信が持てない。そういうはずはない。眼で見ることには見誤りがあっても、勘で行くことには誤りがないと、自ら信じて疑わない弁信法師が、この場合、正直な米友から、明白にこう証言されてみると、それをも疑う余地はないのです。
自分の勘によると、この舟は全く針路を誤ってしまったから、このままでは目的の竹生島へは行けないのみか、かえって全くそれと相反《あいそ》れた方面へ進んでしまう――と信じ切っていたのに、眼前に島が現われた時間からいえば、まさに竹生島に到着してもよい時間になっている。そうして、両眼の明らかな、心術の正直な同行の人が、現物を指して、島があるというのだから、弁信が考え込まざるを得なくなったので、
「米友さん、違やしませんか、もしやそれは、水の上や海岸に起りがちな蜃気楼《しんきろう》というものではありませんか――そちらの方に竹生島があるとは、どうしても考えられません」
それをも米友は、頑《がん》として受けつけないで言いました、
「蜃気楼なら、おいらも伊勢の海にいて知っているよ、あんな竜宮城とは違うんだ、そら、あの通り岩で出来て、木の生えた島が浮いている」
「では、やっぱり、竹生島でございましょうかしら、いつのまにか舟が北をめぐって、そうして竹生島の裏へ出たのかもしれません、そういうはずはありません、断じてありませんが、事実が証明する上は仕方ございません、わたくしの勘のあやまちでございましたか、或いは出舟の際の水先のあやまりでございましたか……」
「とにかくあの島へ舟を着けてみるぜ、いいかい、弁信さん」
百三十六
しかしながら、これは米友の眼の誤りでないことは勿論《もちろん》、弁信の勘の間違いでもなかったのです。
竹生島を南へ三里余の湖上に、竹島というのがある。一名|多景島《たけしま》ともいう。そこへ二人は小舟を着けたのです。悲しいかな、能弁博学の弁信法師も、竹生島あることを知って、竹島あることを知りませんでした。米友に至っては、巧者ぶった弁信の鼻っぱしを少々へし折ってやった気持で、揚々として舟を沿岸の一角につけてみました。
そうして置いて、弁信を舟から助け出したのですが、その時に弁信は、もう座前へ置いた琵琶を頭高《かしらだか》に背負いこんで、杖をつき立てていました。
米友が案内に立って、この岩角の一方に路を求めつつ島の表口へ出ようとしたが、篠竹《しのだけ》が夥《おびただ》しく生えていて道らしい道がないので、押分け押分け案内をつとめ、ようやく小高い一角へ出ると、そこで早くも弁信のお喋《しゃべ》りが展開されてしまいました。
「米友さん――やっぱり違いました、この島は竹生島ではございません」
「じゃあ、何という島だ」
「何という島だか、わたくしは聞いてまいりませんでしたが、たしかに違います、竹生島と申しまする島は、金輪際《こんりんざい》から浮き出た島でございまして、東西南北二十余町と承りましたが、この島はそれほど大きい島ではございません」
「はーてな」
「これは何という島か存じませんが、ずっと小さな島です、多分人間は住んでおりますまい。ともかく高いところまで登りつめてごらんなさい、そうすれば必ず四方見晴しにきまっております、そこで、あなたの眼でよく見定めていただきましょう、竹生島は、あちらの方へさほど遠からぬところに見えなければならないはずでございます、南の方は陸つづき、多分、彦根のお城の方になりましょう、あなたの目でよく見届けていただきます」
「よし来た」
米友は、心得て弁信を案内し、道なき岩道をのぼりかけたが、竹が多いし、大木もある、その木の上に真黒い鳥が夥しくいる。巌の下の淵《ふち》をのぞくと、また夥しい美鳥がいる。
「下のは鴨、上の真黒いのは何だい、烏じゃねえ、鵜《う》だ、鵜だ――畜生、逃げやがらねえ」
と、岩角で地団駄を踏んでみて舌を捲いたのは、この夥しい鳥が、ちょっとやそっと威《おど》してみたところで、お感じのないことです。
「畜生、畜生――」
米友が
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