ざいますが、ちょうど今はまだ冬季に入っておりませんし、比良山にも雪がございませんそうですから、舟はどこまで行っても安心だそうでございます。ですから、外から起る波風の点におきましては、大安心のようなものでございますけれども、米友さんの胸の中に、波風が起ったばっかりに、舟がこの通り行方をあやまってしまいました、この舟で、この方向へ漕いでまいりましては、決して私共の心願のある竹生島へ着くことはできませんでございます」
百三十四
弁信が、さかしら立って、息もつかずまくし立てるので、さすがの米友も啖呵《たんか》を打込む隙《すき》がないのです。
「ねえ、米友さんや、さきほどもわたくしが、あなたに向って申しました、毫釐《ごうり》も差あれば天地遥かに隔たると申しました。それです、長浜の岸を出た時のあの調子で参りますると、舟は無事円満に竹生島へ着くことができたのです、それが途中でこんなに方向がそれてしまいましたのは、水が悪いわけではなく、また舟のせいでも、櫓のせいでもございませんのです、米友さんの心持一つなのです。なぜといって、ごらんなさい、あのとき米友さんが、いい御機嫌で鼻唄をうたい出しになりましたね、それ、十七姫御が旅に立つ、それを殿御が聞きつけて、とまれとまれと袖を引く……ずいぶんおもしろい唄で、無邪気なものでございましたが、それを唄い出しているうちに、米友さんの気持が急に変ってしまいました、その変ったことがわたくしの勘にはありありと分ったのです。あれを唄いかけて、あのところまで来ますと、何か昔のことを思い出したのに違いありません、たとえば故郷の山河が眼の前に現われて来たとか、幼な馴染《なじみ》の面影が前に現われたとかいうようなわけで、何かたまらない昔の思い出のために、米友さんは、あんなに急に気が荒くなってしまって、さっさ押せ押せ、下関までも、と自暴《やけ》に漕ぎ出してしまったのです、それに違いありません。それがあんまり変ですから、わたくしもこの頭の中で、米友さんの胸の中を、あれかこれかと想像しているうちに、おぞましや、自分も自分のつとめを忘れてしまいました。あなたに舟を漕いでいただいて、わたくしが水先案内をつとめねばならぬ役廻りでした、それを一時《いっとき》、わたくしはすっかり忘れてしまったのです。眼の見えないわたくしが、水先案内を致すというのも変なものでございますが、眼は見えませんでも、私には勘というものがございまして、天にはお天道様というものもございます、このお天道様のお光と、この頭の中の勘というものとを照し合わせてみますると、方角というものはおおよそわかるものでございます。ですから、これはやっぱりわたくしが悪いのでございました、責任がわたくしにあるのでございました、米友さんはただ舟を漕いでいただけばよいのでございました、右とか、左とか、取り梶とか、おも梶とかいうことは、その時々刻々、わたくしが言わなければならないのを怠りました、それ故に舟の方向をあやまらせてしまったのは、米友さんが悪いのじゃありません、案内役のわたくしが悪かったのです、米友さんの胸の中を考えるために、私がよけいな頭を使って、舟の方がお留守になりました、それ故ほんの一瞬の差で、舟の全針路を誤らせてしまいました。わたくしたちは全く別な心で出直さなければなりません、そうでございませんと、湖とは申せ日本第一の大湖、周囲は七十里に余ると承りました、迷えば方寸も千里と申します、ましてやこの七十里の湖の中で、二人は迷わなければなりません。米友さん、少しの間、舟を漕ぐことを止めていただきましょう、そうして、ゆっくり、わたくしがこの頭で考え直します、そうして、全く心を置き換えて、再び舟出をし直さなければ、竹生島へはまいれませんのでございます」
百三十五
米友が、ついに堪りかねて、憤然として弁信のお喋りの中へ楔《くさび》を打込みました。
「わからねえ、わからねえ、お前の言うことは一切合財《いっさいがっさい》、ちんぷんかんぷんで、早口で、聞き間に合わねえが、つまり、舟の行先が間違ったというんだろう、なあに、間違やしねえよ、爪先の向いた方へ真直ぐに漕いで来たんだ」
「それが、米友さん、自分は真直ぐなつもりでも、出発点というものが誤ると、その真直ぐが取返しのつかない道へ突っかけるものなのです、竹生島へ参りますには、戌亥《いぬい》へ向いて参らなければならないのに、この舟はいま未申《ひつじさる》の方へ向いて進んでいるのです、これでは竹生島へ着きません」
米友は櫓の手を止めて、弁信の言葉にはあんまり耳を傾けず、渺々《びょうびょう》たるみずうみの四辺をグルグル見廻しておりましたが、急に威勢のはずんだ声を出して、
「待ちな――」
と言いました。
「待
前へ
次へ
全138ページ中93ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング