すのを舟に譬《たと》えてございます、善巧方便《ぜんきょうほうべん》を以て弘誓《ぐぜい》の舟にたとえているのでございます、般若波羅蜜多《はんにゃはらみった》は即ちこの到彼岸の大誓願の真言なのでございます。日蓮上人の御歌にも、ここに人を渡し果てんとせしほどに、我が身はもとのままの継橋《つぎはし》というのがございまして、人を度《ど》して自ら度せずというのが、またこれ菩薩の本願なのでございます。生々《しょうじょう》の父母《ぶも》、世々《せぜ》の兄弟《はらから》のことごとく成仏して而《しか》して後に我れ成仏せん、もし一人《いちにん》を残さば、われ成仏せずと、地蔵菩薩もお誓いになりました。極楽の御法《みのり》の舟に乗りたくば、胸の塵をばよっく鎮めよ、と御詠歌の歌にもございます。すべて舟というものはめでたいものでございますが、特に到彼岸の意味に用いられます場合に、果報この上もなくめでたいのでございます。わたくしの竹生島詣では、多年の誓願の一つでございまして、今日という日に、はからずもその誓願を果すの機縁をめぐまれました。長浜から竹生島までは、僅かに三里の舟路でございますが、目かいの見えぬわたくしと致しましては、多少の不安もございますので、湖岸の臨湖の渡しというのをたずねてまいりましたのですが、はからずもあなたという人にめぐり会ってみますると、うん、それなら、おいらが舟を漕いで渡してやる、お前のそういう結構な願がけから起ったんならば、おいらが舟を漕いで渡してやる、二里や三里は一押しだい! とおっしゃられた時は、わたくしは魂が天外に飛びましたのでございます。これぞ竹生島の弁財天が、特にわたくしのために金剛童子をお遣《つか》わし下されて、数ならぬわたくしの琵琶をお聴きになりたいとの御所望――こうまで先走っておりましたのに、半ばにして音声が変りましたねえ」

         百三十三

「ごらんなさい、米友さん、あなたが、あそこでちょっと気が変ったばっかりに、この通り舟の方向が、すっかり変ってしまいました。毫釐《ごうり》も差あれば天地はるかに隔たるとは、まことにこの通りでございます」
 米友はその時、櫓《ろ》を休めて、眼をまるくして弁信の面《かお》を見ていましたが、
「なんと、お前という人はよく喋る人だなあ――ひとり合点で、ちんぷんかんぷんを言ったって、おいらには分らねえ」
と怒鳴りました。
 けれど弁信は少しもひるまず、
「米友さんや、わたくしは一昨晩――胆吹山へ参詣をいたしましたのです、その時に、あの一本松のところで、山住みの翁《おきな》に逢いました。たいへん、あそこは景色のよいところだそうでございましてね、翁は隙があるとあの一本松のところへ来ては、湖の面《おもて》をながめることを何よりの楽しみといたしまして、ことに夕暮の風景などは、得も言われないと賞《ほ》めておりましたが、その時にわたくしが、わたくしの眼ではその美しい風景も見ることができませんが、そんな美しい琵琶の湖にも、波風の立つことがございますかと聞きますと、それはあるとも、ここは胆吹の山だが、湖をさし挟んであちらに比良ヶ岳というのが聳《そび》えている、胆吹の山も風雪の多い山ではあるが、湖に対してはそんなに暴風を送らないけれども、あちらの比良ヶ岳ときては、雪を戴いた山の風情《ふぜい》がとても美しいくせに、湖にとってはなかなかの難物でございますって――それと申しますのは、若狭湾《わかさわん》の方の低い山々から吹き送られてまいりまするところの北西の風が、ことのほかにたくさんの雪を齎《もたら》し来《きた》るのだそうでございます、そうして、あちらの日本海の方から参りまする雪という雪が、みんな比良ヶ岳の山に積ってしまうのだそうでございます、それで、そのわりに雨というものが少ないものでございますから、雪の解けることがなかなか遅いそうでございまして、冬から春さきにかけますと、沿岸の平地の方は温かになりますのに、山中及び山上は、甚《はなは》だ冷たいものでございますから、そこで温気と寒気との相尅《そうこく》が出来まして、二つの気流が烈しく交流をいたしますものですから、それが寒風となって琵琶の湖水に送られる時が、たまらないのだそうでございます。波風は荒れ、舟は難船いたし、人も災を蒙《こうむ》ることが多いのだそうでございます。そこで、この時分を、比良八荒《ひらはっこう》と申しまして、事に慣れた漁師でさえも、出舟を慎しむのだそうでございます。藤井竹外という先生の詩に『雪は白し比良山の一角 春風なほ未《いま》だ江州に到らず』とございました、あの詩だけを承っておりますと、いかにも比良ヶ岳の雪は美しいものとばかり思われますけれども、そういう荒い風を送るということを、わたくしは一昨日、胆吹の山住みの翁から承ったのでご
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