百三十一
そこで、はじめて気がついたように米友が、
「うーん、そうだったか」
と言って、自暴《やけ》でこめていた櫓《ろ》の力を抜きますと、弁信が、
「ずいぶん、漕ぎ方が荒かったでございます、どうしたのですか、米友さん、わたくしはどうもそれがおかしいと思って、今まで、ひとりで考えてみました、最初この舟が、あの城あとの前から出る時は、ほんとうに穏かに辷《すべ》り出しました、その舟の辷り出す途端から、米友さんが櫓を押す呼吸も穏かなものでございましたのに――そこで、米友さんも自然に鼻唄が出てまいりましたね、水も、波も、舟も、櫓も、ぴったりと調子が揃《そろ》っておりました、そこで、その調子に乗って、おのずから呼吸が唄となって現われた米友さんの心持も素直なものでございました。わたしはそのときに別なことをこの頭で考えておりましたが、米友さんの唄が、あんまりいい気持でうたい出されたものでございますから、うっかりそれに聞き惚《ほ》れてしまいました。何と言いましたかね、あの唄は……十七姫御が旅に立つ、それを殿御が聞きつけて……おもしろい唄ですね、罪のない唄ですね、それを米友さんがいい心持でうたい出したものですから、わたくしも、つい、いい心持にさせられてしまいましたのです。あなたの音声に聞き惚れたのではございません、その調子がととのっておりました、米友さんの唄いぶりもおのずから練れておりました。あの唄は米友さんが長い間うたい慣れた唄に相違ありません、よく練れていました、気分がしっくりとしていました。関雎《かんしょ》は楽しんで淫せず、と古人のお言葉にありますが、大雅の声というものが、あれなんだろうと思われました、太古の民が地を打って歌い、帝力何ぞ我にあらん、と言った泰平の気分があの唄なんだろうと、わたくしは実に感心して聞き惚れていましたのに、それが半ばからすっかり壊れてしまいました。どうしてあんなに壊れたでしょう、あれほど泰平|雍和《ようわ》の調子が、途中で破れると、すべてが一変してしまいました、あなたの唄が変り、櫓拍子が変り、呼吸が変り、従って舟の動揺が全く変ってしまったのには、わたくしは驚いてしまいました。そうかといって、波風がまた荒くなったのではありません、湖の水流に変化が起ったわけでもありません、前に何か大魚が現われたという気配もございませんし、後ろから何物かが追いかけて来るような空気もございませんのに、ただ、米友さん、あなただけが、荒れ出してしまい、それから後のあなたの舟の漕ぎっぷりというものが、まるで無茶ですね、無茶と言えなければ自暴《やけ》ですね。さっさ押せ押せ、と言いながら、そうして自暴に漕ぎ出してからのお前さんは、いったい、この舟をどこまで漕ぎつけるつもりなのですか。下関といえば内海の果てでございます、それから玄海灘《げんかいなだ》へ出ますと、もう波濤山の如き大海原《おおうなばら》なんでございますよ。ここは近江の国の琵琶の湖、日本第一の大湖でございますが、行方も知らぬ八重の潮路とは違います、それだのに、米友さん、お前さんの、今のその漕ぎっぷりを見ていると、本当に下関まで、この舟を漕ぎつけて行く呼吸でした。下関までではございません、玄海灘――渤海《ぼっかい》の波――天の涯、地の角までこの舟を漕ぎかける勢いでございました」
百三十二
お喋《しゃべ》り坊主の弁信法師は、一気にこれだけのことを米友に向ってまくし立てたが、その間も安然として舳先《へさき》に坐って、いささかも動揺の色はありません。
こちらは、いささか櫓拍子をゆるめた宇治山田の米友は、呆《あき》れ面に弁信の面を見詰めていましたが、ちょっとお喋りの呼吸の隙を見て、
「よく、喋る人だなあ、お前さんという人は……」
と言いました。
米友は、お喋りが即ち弁信であり、弁信が即ちお喋りであることを、まだよく知らないから、一気にまくし立てられて呆れ返るばかりでありましたが、弁信の減らず口はまだ続きました。
「ねえ、米友さん、この舟は、下関や玄海灘へ漕ぎつけていただくのではございません、ほんの、この目と鼻の先の、竹生島まで渡していただけばそれでよいのです、そのことは米友さんもよく御承知の上で、わたくしが、さいぜんあの城跡のところで、わたくしの希望を申し述べますと、あなたが急に勇み立って、よし、そういうわけなら、おいらがひとつ舟を漕いで渡して行ってやる、なあに、三里や五里の間、一押しだい、と言って、特にこのわたくしを小舟で、竹生島まで送って下さるという頼もしいお言葉でございましたから、わたくしは、これぞまことに渡りに舟の思いを致さずにはおられませんでしたのでございます。仏の教えでは『到彼岸《とうひがん》』ということを申しまして、人を救うてこちらからあちらの岸に渡
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