てしまったのです。
この湖岸の城跡というのが、そもそも名にし負う、羽柴秀吉の古城のあとなのでありました。秀吉が来るまでは今浜といったこの地が、彼が来《きた》って城を築くによって、長浜の名に改まりました。はからずここへ足を踏み込んで、弁信法師は杖《つえ》を立てて、小首をかしげてしまったのは、湖岸としての感覚と、古城址としての風物が、その法然頭《ほうねんあたま》の中で混線したからではありません。そこで、意外にも、例の残塁破壁の中に、動物の呼吸を耳にしたからであります。
思いがけなくも、何か一種の動物があって、この残塁破壁の中で、快く昼寝の夢を貪って鼾《いびき》をかいている。
それが弁信法師の頭へピンと来たものですから、杖を止めてその小首をかしげたのですが、これは、虎《こ》でもなければ※[#「「凹/儿」」、第3水準1−14−49]《じ》でもありませんでした。本来、琵琶湖の湖岸には左様に猛悪な猛獣は棲《す》んでいないのですが、そうかといって、穴熊の如きがいないという限りはない。
しかし、幸いに、穴熊でもなかったと見え、弁信が小首を傾けた瞬間に、向うがハタと眼を醒して、
「誰だい、そこへ来たのは」
と言ったのは、まごうかたなき宇治山田の米友であったのです。
紛う方なきといっても、知っているものは知っているが、知らないものは知らない。まして、弁信はまだ米友を知らず、米友はまだ弁信を知らなかったのですが、ここで初対面の二人は、存外イキの合うものがありました。
一見旧知の如しという言葉もあるが、弁信は米友を見ることができないから、一勘旧知の如しとでもいうのでしょう――こうして二人は、湖岸の古城址の間で、相対して問答をはじめました。
百三十
湖岸に於ける二人の初対面の問答を、いちいち記述することは保留し、とにかく、それから間もなく二人は、こうして真一文字に舟を湖面へ向って乗り出したのです。
勢いよく、小舟の櫓《ろ》を押しきっている宇治山田の米友は、櫓拍子につれて、
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十七姫御が
旅に立つ
それを殿御が
聞きつけて
とまれ
とまれと……
[#ここで字下げ終わり]
思わず知らず、うたい慣れた鼻唄が鼻の先へ出たのですが、何としたものか、急に、ぷっつりと鼻唄を断ち切った時、そのグロテスクの面に、一脈の悲愴きわまりなき表情が浮びました。
そこで、ぷっつりと得意の鼻唄を断ち切って、悲愴きわまりなき表情を満面に漲《みなぎ》らしてみたが、やがて櫓拍子は荒らかに一転換を試みて、
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さっさ、押せ押せ
下関までも
押せば
湊《みなと》が近くなる
さっさ、押せ押せ
それ押せ――
[#ここで字下げ終わり]
実に荒っぽい唄を、ぶっ切って投げ出すような調子に変りました。
唄が荒くなるにつれて、櫓拍子もまた荒くなるのです。
[#ここから2字下げ]
さっさ、押せ押せ
下関までも
押せば
湊が近くなる
さっさ、押せ押せ
[#ここで字下げ終わり]
以前の調子に比べると、鼻息も、櫓拍子のリズムも、まるで自暴《やけ》そのもののようです。
自然、小舟の動揺も、以前よりは甚《はなは》だ烈しい。しかし、抜からぬ面で舳先《へさき》に安坐した弁信法師の容態というものは、それは相変らず抜からぬものであり、穏かなものであると言わなければなりません。
それからまた、湖面の波風そのものも、以前に変らず、いとも静かなものだと申さずにはおられません。
湖も、波も、人も、舟も、すべて穏かであるのに、漕ぎ手だけが突変して荒っぽいものになってしまい、
[#ここから2字下げ]
船頭かわいや
おんどの瀬戸で
こらさ
一丈五尺の
櫓がしわる
さっさ、押せ押せ
下関までも
さっさ、押せ押せ
さっさ、押せ押せ
[#ここで字下げ終わり]
そのたびに、櫓拍子が荒れるし、舟が動揺する。最初に、十七姫御が……と言って、古城の岸から漕ぎ出された時は、漕ぎ出されたというよりも寧《むし》ろ、辷《すべ》り出したような滑らかさで、櫓拍子もいと穏かなものでありましたのに、この鼻唄が半ば過ぎると急に、序破急が乱れ出し、唄が変ると共に呼吸が荒くなり、櫓拍子がかわり、舟が動揺し出しました。
舟というものは、風と波とに弄《もてあそ》ばれることはあるが、風も波も静かなのに、人間が波瀾を起して、現在その身を托している舟そのものを弄ぼうということはあり得ないことですから、その動揺の烈しさにつれて、さすがの弁信法師も、つい堪りかねたと見えて、
「米友さん――どうしました、舟の漕ぎ方が少し荒いようですね」
さりとて、弁信も特に狼狽《ろうばい》仰天して、これを言ったのではありません。相変らず舟の一方に安坐して、抜からぬ面《かお》で言いました。
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