主従は極めてつつましやかな旅をいたしました。
 この間、若党の奥様に仕えることの忠実さ、道中は危ないところへ近寄らせないように、時刻もよく見計らって、宿へ着いての身の廻りからなにから、痒《かゆ》いところへ手の届く親切ですから、奥様としては、全く不自由な旅へ出たとは思われないくらいの重宝《ちょうほう》さでした。
 この下郎の、こんな忠実な働きぶりは、今にはじまったことではなく、亡き夫のいる時分から邸に於て、この通り蔭日向《かげひなた》がなかったのですが、こうして旅へ出てみると、この親切さが全く骨身にこたえる。
 奥様は、家来とは言いながら、蔭では手を合わせてこの下郎の忠実に感謝をしました。
「いわば一期半季の奉公人に過ぎないあの男が、こうまで落ち目のわたしに親切をしてくれる、人情も義理も、まだ地へは落ちない、家来とは言いながら、思えば勿体ない男……」
と奥様は、表では主人としての権式《けんしき》を保っていましたけれども、内々では、杖とも柱とも頼みきっておりました。
 奥様とはいうけれども、若党とは年こそ十も違っているけれど、中年の武家の奥様として、申し分ない和《やわ》らかみと、品格を持っておりました。
 若党は百姓の出でしたが、面つきだって凜々《りり》しいところがあり、それに、がっちりしたいい健康と、それに叶う肉体を持っておりました。
 こうして主従は、心の中で感謝したり満足したりしながら、敵をたずねて旅の日を重ねたのですが、もとより当りがあっての旅ではないのです――明日敵にめぐり逢えるか、十年先になるか、そのことはわからないのです。
 そうして行くうちに、奥様は、旅の前途が心細くなればなるほど、この男を頼む心が強くなるのは当然です。頼られれば頼られるほど、奥様をいとしがるのが男の人情です。奥様の路用がだんだん軽くなるのを察した若党は、奥様に知らせないように、路用の足しを工面《くめん》することに苦心しました。お米の小買いをして来て、木賃で炊いて食べさせたり、畑で野菜を無心したり、漁場で魚を拾ったりなどして、奥様のお膳に供えることもありました。奥様はそれを知って、胸には熱い涙を呑みながら、表には笑顔をもって箸《はし》をとりながら、世間話に紛らしたものです。
 奥様の心の中は、この下郎に対する感謝と愛情でいっぱいです。奥様はこの若党に、まあ、どうしたらこの男に、この胸いっぱいな感謝の心を見せてやることができようかと、奥様はその思いに悶《もだ》えました。でもさすがに、武家の奥様でございますから、厳格なところはどこまでも厳格でございました。質朴な若党は、主人の奥様に対して忠義を尽すことは、あたりまえのこととしか考えていなかったのですが――いつしか、この奥様の自分に頼りかたが、全く真剣であることを感じて、それが全く無理のないことと思いやった上に、自分もどうしても、もう他人でないような親身の思いに迫られて来るのです。
 さあ、長い月日の旅、この主従がいつまで主従の心でいられましょうか――二人のおさまりがどうなりますか。
 あなた、判断してみて頂戴よ。
 と、女がまたクルリと寝返って、兵馬の方に向いてニッコリと笑いかけました。

         百二十九

 長浜から、琵琶湖の湖面へ向って真一文字に、一隻の小舟が乗り出しました。
 舟の舳先《へさき》の部分に、抜からぬ面《かお》で座を構えているのが、盲法師《めくらほうし》の、お喋《しゃべ》り坊主の弁信であって、舟のこちらに、勢いよく櫓《ろ》を押しきっているのが、宇治山田の米友であります。
 これより先の一夜、胆吹《いぶき》の上平館から、机竜之助の影を追うて飛び出して来た宇治山田の米友が、長浜の町へ来てその姿を見失い、そうして、たずねあぐんだ末が湖岸の城跡に来て、残塁礎石《ざんるいそせき》の間に、一睡の夢を貪《むさぼ》っていた宇治山田の米友であります。
 胆吹の御殿から、胆吹の山上を往来していた弁信法師もまた、飄然《ひょうぜん》として山を出て、この長浜の地へ向って来たのです。
 米友がここへ来たのは、竜之助の影を追うて来たのであるが、弁信の来たのは、竹生島へ詣《もう》でんがためでありました。
 弁信法師が竹生島へ詣でんとの希望は、今日の故ではありません。
 彼は習い覚えた琵琶の秘伝の一曲を、生涯のうちに一度は竹生島の弁財天に奉納したい、というかねての希望を持っておりました。
 今日は幸い、その希望を果さんとして、これから舟を借りて湖面を渡ろうとして、長浜の町から臨湖の渡しをたずねて来たのですが、そこは、勘がいいと言っても盲目のことですから、湖と陸との方角は誤りませんでしたけれども、臨湖の渡しそのものが湖岸のいずれにありやということを、たずねわずろうて、そうして、ついこの湖岸の城跡のところまで来
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