も善智識の教えとして聞くよ。少なくとも、君は僕より年が幾つか上だ、先輩だと思って尊敬して聞くから、何でも話してくれ給え、それを身にするか、骨にするかは、こっちの聞き方一つなんだ、悪口、結構、惚気をやるも苦しくない――話し給え、話し給え、こっちは聞き役だ」
と兵馬は、かなり歯切れよく言いましたものですから、女も諦《あきら》めたと見えて、
「それでは一つ、面白い話をして聞かせますから、聴いて頂戴――」
と言って、腹ばっていた女は煙管をほうり投げて、くるりと寝返りを打ち、箱枕を、思いきってたっぷりした島田くずしの髱《たぼ》で埋めて、蒲団をかき上げるようにして、ちょうど兵馬の坐っている方とは後向きに寝相を換えたのですが、その時、肩から背筋までが、わざと衣紋《えもん》を抜いたように現われたのを、そのまま、あちら向きで話しかけました。
おなじ話をはじめるならば、寝ているにしてからが、こちらに向き返って話したらよかりそうなものを、わざとあちら向きになって改まったのは、襟足や、首筋や、肩つきを、思い切って開けっ放して見せつけた失礼な仕打ちだ。
兵馬はそのだらしない乱れ髪と、襟足と、女の肩から背へかけての肉つきというものを、まざまざと見せつけられたが、女としては見せつけたのではない、こういうだらしのないのが、こういう女の作法だろうとも思いました。
百二十七
女は寝ながら、次のような話をはじめました。
それを書き下ろしてみると――
昔、同じ藩中の人に殺されたお武家がありました。そのもとの起りは、奥様から起ったのだそうです。そこで、まだ子供はなし、力になるほどの身寄りもないけれど、この奥様は、なかなか気象の勝った奥様でございまして、夫の敵《かたき》、もとはと言えば自分から起ったこと、これをこのままにして置いては、女ながら武士道が立たない。といって、身寄りには一人も力になるのはないのです。そこで雄々しくも自分の夫の敵討願いを出して、旅に出ることに覚悟を決めました。
ところで、家には、夫の時代から愛し使われた若党が一人あるのです。若党といっても若いとはきまっていないけれども、この若党は真実年も若し、それに身体《からだ》が達者で、腕も利き、万事に忠実で、亡き夫も二無きものと愛して召使っておりました。
この若党にも暇をやって、奥様はひとり敵討の旅に出ようとしますと、若党がそれを聞いて涙を流して言いました、
「それはお情けないお言葉でございます、亡き御主人様に子のように愛されておりましたわたくし、今この場に当って、奥様の敵討にお出ましになるのをよそに、どうしてこのお邸《やしき》を立去られましょう。下郎の命はお家のために捧げたものでございます、どうか、私めをもお連れ下さいまし、道中に於ての万事の御用は申すまでもなく、敵にめぐり逢いました時は、主人の怨《うら》み、一太刀なりと報いなければ、仮りにも家来としての義理が立ちませぬ。どうぞこの下郎をお召連れ下さいまし、たとえ私は乞食非人に落ちぶれましょうとも、奥様に御本望を遂げさせずには置きませぬ。もしお聞入れがなくば、この場に於て切腹をいたしまして、魂魄《こんぱく》となって奥様をお守り申して、御本望を遂げさせまするでございます」
思い切った体《てい》で、こう言い出しましたものですから、奥様も拒《こば》むことができません。
「それほどそちが頼むならば、聞いてあげない限りもないけれど、知っての通り、家にはそう貯えというものがあるわけではなし、永《なが》の年月たずぬる間には路用も尽きて、どうなるか知れぬ運命、わたしとしては、行倒れに倒れ死んでも、夫への義理は立ちます、いや、たとえ本望は遂げずとも、死んで夫のあとを追えば、それも一つの本望であるが、お前は縁あってわたしの家に使われたとは言いながら、譜代の家来というわけではなし、まだ若い身空だから、いくらでもよそへ行って立身出世の道はある、そうしたからとて、誰もお前に非をうつものはないけれど、わたしはそうはゆかない、わたしに代って敵を討つ身寄りがない限り、わたしというものはこうしなければ、家中《かちゅう》へ面向《かおむ》けがなりませぬ。ここをそちに聞きわけてもらいたいが、それほどに言われる志はうれしい。では、その覚悟で、わたしに附添うて下さい――頼みます」
「有難うございます、一生の願いをお聞き入れ下されて、こんな嬉しいことはござりませぬ」
そこで、主従が勇ましく敵討の旅に立ち出でました。
奥様にとっては、むろん夫の敵――下郎にとっては主人の仇、名分も立派だし、ことに主家の落ち目を見捨てない下郎の志は一藩中の賞《ほ》めものでした。
百二十八
旅へ出てからも、もとよりあり余る路用があるというわけではありませんから、
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