、宇津木さん、もう何時《なんどき》でしょう、夜が明けるんでしょうか、夜中なんでしょうか、わたし、ちっとも見当がつきませんわ、宵《よい》の口から、真夜中のような気がしてるもんですから」
「そうだな、いやもうかれこれ、夜が明ける時分だろう」
「わたしも、もう寝つかれませんわ、起きちゃいましょうか知ら」
「いや、まだ、そうしてい給え、寒いだろう。どら、一《ひと》くべ火を焚いて進ぜる」
と言って兵馬は、薪を取って火を盛んにしました。女は相変らず蒲団《ふとん》の中に腹這いながら、
「済まないわねえ、わたし、心からあなたにお気の毒だと思ってよ」
「そうお気の毒お気の毒いうな、君たちが心配するほど毒になりはせぬ」
と兵馬が言いました。
「でも、わたしだけが、かりにもお蒲団の中に横になっていて、あなたに、お手水へ連れて行って頂戴のなんのと言ったり、火を焚いていただいたり……」
「やむを得ない」
「ですから、わたし、もう起きちゃいますわ。起きて、あなたと一緒に、その囲炉裏《いろり》の傍でお話をしましょう」
「かえって寒いよ――眠れなければそのままで、話をし給え、拙者がここで、聞き手になって上げる」
「では、このままで、もう少し失礼させていただきましょう」
「何か話をしてくれ給え」
「人の悪口を言いましょうか」
「誰の」
「そうですね――誰がいいでしょう」
「相手を考えて悪口をいう奴もないもんだ」
「仏頂寺の悪口を言ってやりましょうか」
「あれはよせ、あれは見かけほど悪い男ではない」
「胡見沢《くるみざわ》の助平お代官の悪口でも言ってやりましょうか」
「殺された人の悪口などはいけない、たとえ嫌な人であろうとも、ああいうのは、悪口よりは、回向《えこう》をしてやるのが本来だね」
「本当ね、ではそうそう、お蘭さんならいいでしょう、あの人なら、きっとぴんぴんして、どこかで、またいいかげんな人を相手にうじゃじゃけているに違いないわ、あんな人こそ、思いきり悪口を言ってあげた方がいい」
「いや――あれも、君が憎むほどの悪人じゃあるまいぜ、第一、君にこのお手元金を取られてしまって、さぞ残念がってるだろう――そのうえ悪口を言われてはたまるまいからな」
「それもそうですね、あたりまえなら只で置く女ではないのですが、罰金が取上げてあるから、暫く許して置いてあげましょう」
「それがいい」
「では、誰の悪口にしましょうね、誰も悪口を言う相手がないじゃないの」
「相手がなければ、悪口を言わんでもいい」
「でも、悪口を言わなければ、話の種がないじゃありませんか」
「話の種というのは、悪口に限ったわけのものじゃあるまい、何か罪のない、面白い世間話をし給え」
「罪のない話なんて、ちっとも面白かないわ、罪があるから世間話の種にもなるんじゃないの――では、わたし、自分のおのろけ[#「おのろけ」に傍点]でも言って、あなたに聞いていただこうかしら」
百二十六
「結構だね、大いにやり給え」
と、兵馬もこのところ、大いにさばけてこう出たのに、女がかえって尻込みをして、
「よしましょうよ」
「よさなくってもいいから大いにやれ」
「いやです。第一、あなた、こうして山小屋の中へ木屑同様におっぽり出されて、手の出し手もない女が、おのろけもないじゃありませんか」
「今はなくても、昔はあったろう、これからまたあるだろう、それを盛んに並べて見給え」
「昔を言えばねえ、よしんばあったところで、おそらく、追いのろけは気が利《き》かない骨頂ですからねえ。これからあるだろうとおっしゃったって、あなた、未来のおのろけを語るほどおめでたい話もありませんねえ。いったい、どちらにしましても、芸妓《げいしゃ》のおのろけなんていうものは、おのろけの中に入りません」
「悪口もいけず、惚気《のろけ》もいけない――」
「ですから、あなたのを聞かせて頂戴な、素人《しろうと》のお惚気は本当のお惚気なのよ、それを承りましょう」
「僕に、そんなものはない」
「ないことないでしょう……仏頂寺さんから種が上っています」
「亡くなっている仏頂寺を証人にとれば何でも言える」
「あなた、ずいぶん、江戸の吉原で苦労をなさったそうですね」
「そんなことはないよ」
「ないことがあるもんですか――いくらお体裁を飾っても、わたしたちの目から見れば、一度でも遊んだことのある人と、ない人とは、ちゃんとわかりますよ」
「見るように見る人の勝手だ」
「あなたという方もわからない方ね、一度でも遊んだ覚えがあるくせに、いやに角《かど》がとれない」
「何でもいい、要するに、こっちには、面白くおかしく話して聞かせるほどの世間話も、身の上話もないが、君の方は世間慣れているから、種があるだろう、何でも、心任せに話してくれないか、修行中の僕等は、なんでもかで
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