悪いから」
「何が悪い」
「おたのしみのさまたげをしては悪いからな」
「君までが……けしからん」
と、兵馬はまたも気色ばんで詰問の語気になると、戸の外でどっと笑いました。
その笑った声は、仏頂寺弥助と丸山勇仙と、二人の混合した声なのでしたが、その笑い声を聞いて、はじめて兵馬がゾッとした鬼気に襲われざるを得ませんでした。そうするとまた同時に、
「何が怪《け》しからん」
と外で言ったのは、丸山勇仙の声です。兵馬は直《ただ》ちにそれに応じて言いました、
「怪しからんじゃないか、おたのしみだの、おさまたげだのと、奇怪千万な。人を見て物を言い給え」
「は、は、は」
とまた外で、二人が声を合わせて笑い出したから、
「何がおかしい」
兵馬が、むっとしてたしなめると、
「だっておかしかろうじゃないか、芸妓《げいしゃ》を連れて道行をすれば、これがおたのしみ[#「おたのしみ」に傍点]でなくて、世間のどこにおたのしみがあるのだ、おたのしみをおたのしみと言われて、腹の立つ奴がよっぽどおかしい」
と言ったのは、やはり丸山勇仙の声であって、同時に、
「は、は、は」
と笑ったのは、二人の合唱です。
「いよいよ君たちは邪推者《じゃすいもの》だ」
兵馬が怒ると、外で抜からぬ声、
「我々の邪推じゃないよ、粋《すい》を通しているのだよ。いいかい、我々がこれほど粋を通してやっているのを、悪くとる宇津木君、君はねじけ者だ。いったい、君は我々を厄介者のようにして、常々けむたがっているようだが、それが大きな了見違いだよ、君のために、我々が計って不忠をしたことがあるかい、こう見えても仏頂寺と丸山は、人情主義者なんだ、君のような不人情漢とは性質《たち》が違う」
丸山勇仙は弁舌が軽い。兵馬はついそれに釣り込まれて、
「いつ、拙者が不人情をした」
「は、は、は」
とまた外で、二人が声を合わせて笑いました。
百二十一
どっと笑ってから、丸山勇仙がまた抜からぬ声で言いました、
「まあ、おそらく君ぐらい不人情な男はあるまいよ。我輩の如きは、君も見て知っているだろうが、小鳥峠の上で、仏頂寺と見事に心中を遂《と》げたんだ、仏頂寺の友誼《ゆうぎ》に殉《じゅん》じたんだぜ。僕はなにも先んじて死にたかったわけじゃないんだ、仏頂寺が死にたくなったというから、驚いて差留めたくらいなものなんだ。だが、理由を聞いてみると、留めることができなくなったよ。いや、理由もなにもありゃしないんだ、理由なき理由なんだね。そこで、仏頂寺がどうあっても腹を切るというから、それなら、おれも一人じゃ生きていられない、君が刀で腹を切るなら、おれはお手前物の毒薬を飲む――君も知ってるだろう、おれは長崎で蘭医の修業をやりそこねた書生くずれなんだ、そこで、仏頂寺とああやって心中を遂げたんだが、ずいぶん苦しかったぜ。しかし、今はいい心持だよ――ところで、君はどうだ、我々がこうして美しく人情に殉じていることがわからず、それに一遍の回向《えこう》もせず、とむらいの真似《まね》もせず、一途《いちず》に後難を怖れて、知らぬ面《かお》に引上げてしまったじゃないか。それもまあ、事情やむを得ぬとして、君は我々に見換えても、その女を保護する役目を買って出たのは感心だ、今度はしっかりやれよ、いったん引受けた以上は、最後まで見届けるんだぞ、仏頂寺弥助と丸山勇仙の二人に見換えて、旅芸者一人に人情を尽してみたい君なんだから、今度はいいかげんにおっぽり出すと承知しないぞ」
能弁な丸山勇仙がしきりにまくし立てる。兵馬はそう言われると、なんだか自分の重大な弱味をあばかれでもしたような気持がして、ちょっと返答に窮していると、今度は外で仏頂寺弥助が代って言いました、
「宇津木、まあいいよ、そんなことは丸山の愚痴だ、我々は勝手に行きたいところへ行こうとして、その目的を達したんだから、あえて君に見送られようとも、見送られまいとも、それを言い立てる我々じゃない、我輩と丸山とは、こうして円満に人情主義をやり通したが、君のはあぶないぜ――これからが危険なんだ」
「それは知っているよ」
と兵馬が、とってもつかぬように内から答えますと、丸山勇仙が、
「危険というのは、君、白山白水谷の危険という意味ばかりじゃないぜ」
「それも、これも、承知の上なのだ、無益な問答をするよりは、なかへ入り給えと言うに」
「こっちはこれが勝手だと言ってるんだからいいじゃないか。では、丸山、このくらいで引返そうではないか」
と仏頂寺が丸山を促したらしい。そうすると、丸山勇仙が、
「そうだね、この辺で引上げるとしようか、では、宇津木、大事に行けよ」
「君たち、帰るのか、あんまりあっけないではないか」
「いや、そのうちまた、どこかで逢う機会もあるだろうよ、大事にし給え。それか
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