ら君、なお念をおして置くが、君の旅路も明日あたりから、そろそろその危険区域に入るんだぜ、気をつけ給えよ」
「ありがとう――」
「明日あたりから君、畜生谷が現われるんだぜ、しっかりし給えよ」
「畜生谷とは?」
「畜生谷を知らんのか――白山白水谷のうちに、有名なる畜生谷というところがある――そこへ落ち込んだら最後、浮み上れないのだ」
百二十二
「さようなら、宇津木」
「宇津木君、失敬」
二人は、ついに行ってしまいました。
兵馬は柱にもたれたまま、それを引留めたい心でいっぱいでありながら、ついに戻れという機会を逸してしまいました。
それは会話なかばに、とても眠くなって眠くなってたまらなくなり、うっとりと失神状態に陥ったところを、二人に無造作《むぞうさ》に立ちのかれてしまった。そこに気がつくと、何とも言えない空虚を感じ出して、そのままその座を飛び立って、戸の外へ走り出しました。
「おーい、仏頂寺君――丸山君」
声を限りに呼びながら、兵馬は二人のあとを追いかけたのです。
無論、そのくらいですから、草鞋《わらじ》をつける余裕もなく、有合わす履物《はきもの》もなく、戸を押したか開いたかそのこともわからず、仏頂寺と丸山とが、東へ行ったか、西へ行ったか、その痕跡に頓着もなく、兵馬はやみくもに走り出したのです。
「おーい仏頂寺君、おーい丸山君」
こう言って、続けざまに叫び且つ走りました。
道は、山が高く頭上を圧し、谷が羊腸《ようちょう》として下をめぐっている。谷の底から実に鮮かな炎が、紫色の煙と共に吹き上げている。
「ははあ、あの二人が畜生谷と言ったのが、これだな、畜生谷……」
兵馬はその異様な谷を見渡すと、谷をめぐる一方の尾根を縦走しつつ、談笑して行く二人の者の姿を遥《はる》かに認めて、
「おーい、仏頂寺君、丸山君、待ち給え、待ち給えよう」
この声で、豆のような姿に見えた縦走の二人が、歩みを止めて、こちらを見返りました。息せき切った兵馬は、
「あんまりあっけないから、追いかけて来たのだ、でも、追いついてよかった」
とはいうものの、あちらは遥かに峰の高いところにいる。
「何だ、宇津木、何しに来た」
と、仏頂寺が上から見おろして答える。兵馬は谷間に突立って、
「大切のことを君たちに聞き落したから追いかけて来たのだ、ちょっと、もう一ぺん戻ってくれないか」
「もう駄目だよ」
仏須寺が頭を振るのがよくわかる。そうすると、丸山勇仙が、
「もう駄目だよ、君と僕たちとの距離は、単に山の上と下だけの距離じゃないんだ、我々は君のところへ下りて行けない、君は、我々のところまで上って来られない、そこにいて話をするさ」
「ちぇッ」
と兵馬は、それをもどかしがりながら、思いきって、
「では、ここで君たちにたずねたいが、机竜之助は今どこにいるのだ、君たちが隠したとは言わないが、たしかにそれを知っているように思われてならぬ、それをひとつ明かして行ってくれ給え」
「なに、机竜之助?」
「うむ、机竜之助の行方《ゆくえ》だ」
「おい、丸山」
と、これは仏頂寺の声で、兵馬の問いに答えたのではなく、丸山勇仙をかえりみて、とぼけたような声で、
「君、机竜之助とかなんとかいう人物を知っているかい」
「何だって、机竜之助?」
丸山勇仙が、またとぼけた面《かお》をしているので、兵馬がむっとしました。
百二十三
「君たち、しらを切ってはいけないよ、君たちが机竜之助を隠している。隠していないとすれば、少なくとも拙者が竜之助にめぐり会うべき機会を妨げた――信州の諏訪以来、覚えがあるだろう」
と兵馬から厳しく、こうたしなめられると、はじめて二人が気がついたように、面を見合わせて、
「ああそうか、あのことか、あれか」
「どこにいるか、その在所《ありか》を教えてくれ給え、明白に言えなければ、暗示だけでも与えてくれ給え」
兵馬が畳みかけて追い迫ると、仏頂寺は呑込み面に、
「あれはな、宇津木君の推察通り、いささか妨げをしてみたよ、意地悪をしたわけじゃない、人から頼まれたんだ」
「誰に頼まれた」
「それは、甲州の豪族の娘で、俗にお銀様といって、なかなかの代物《しろもの》だ、その人に我々が余儀なく頼まれてな」
「うむ、あのお銀様という女――あれなら僕も知っている」
と、兵馬もそう答えざるを得ませんでした。そうすると仏頂寺が、
「あのお銀様という女に頼まれてな、宇津木兵馬が、机竜之助を兄の仇《かたき》だと言って、つけ覘《ねら》っている、これから信州の白骨へ行こうとする、会わせては事が面倒だから、どうか、二人を会わせないようにしてくれと、我々に頼んだのだ」
「そうか。そうして、それから?」
「そこで、我々はちょっと迷ったよ、宇津木のためには、早く会
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