飛ばすまい、落ちて来たものは最後まで受留めてみせる――怖ろしいことでも、辛いことでも、いやなことでも、嫌いなことでも、なんでもかでも、落ちかかったものを、じっと最後まで受留めてみよう。これをもって平常底の行持《ぎょうじ》とすることに決定《けつじょう》する。
 そこで、この女に対してすらが、もうこうなった以上は、以前のように振り捨てまい。振り捨ててしまえば、また仏頂寺に攫《さら》われる。いや、仏頂寺はすでにこの世に亡き人だが、仏頂寺以外の奴にさらわれる。さらわれたってかまわないようなものだが、その尻拭いがまたこっちへ報って来るのだ。今度はひとつ、女の言いなりになって見せる。それが修行だ。

         百十九

 兵馬が柱にもたれて、うつらうつらしていると、外で夢路をたどるように人の叫び声がある。
「宇津木、宇津木」
「はっ」
と兵馬は我に返ったが、どうも気のせいか、その声が、仏頂寺弥助の声のように思われてならないから、
「誰だ」
「おれだよ」
「誰だ」
 兵馬はもう一度、念のために耳を傾け直すと、
「おれだよ」
「誰だ」
「声でわかりそうなものじゃないか、仏頂寺だよ」
「やあ、仏頂寺君か」
「まあ、いいよ、そうしておれよ」
 戸の外からしきりに声をかける仏頂寺の言葉つきは、存外、落着いたものでありました。そうして、たしかに仏頂寺の声に相違ないと、兵馬の耳にはとおるのです。
「君は――君は」
と兵馬が少し気色《けしき》ばんで吃《ども》ると、外から仏頂寺の声で、
「そう驚かんでもいいよ、小鳥峠の上で立派に腹を切った拙者が、こうして、うろついて来たから、君は狼狽《ろうばい》しているだろう、あわてるな、あわてるな」
「あわてはしないけれども、君はどうしてここまで来たのだ」
「どうしてだっていいじゃないか、今更そんな野暮《やぼ》を言うない、仏頂寺は、君と知った時以前から亡者なんだ、亡者として、ふらふら旅をした身の上は、君も聞いて知ってるだろう、仏頂寺弥助は加茂河原で、北村北辰斎のために斬られているのだ」
「では、小鳥峠の上で自殺したのは、ありゃ誰だ」
「誰だっていいじゃないか、亡者となってみれば、死にかわり、生きかわり、ふらふらと盲動するのが身上だ」
「では、なんにしてもなかへはいったらどうだ、焚火もよく燃えているよ」
「いや、はいるまい、はいっちゃわるいだろうな」
「これは仏頂寺君らしくもない遠慮だ、なかへ入り給え」
「止そうよ、悪いから」
「何が悪い」
「おたのしみのさまたげをしては悪いからな」
「ばかなことを言え」
と兵馬は躍起となりました。ところが、外なる仏頂寺の声はいとど平然たるもので、
「馬鹿ではないよ、そこは仏頂寺も心得ているよ」
「いやに気を廻す、仏頂寺君らしくもない言いぶりだ、かまわないから、戸を押して入ってくれ給え」
「いけないよ、ここで話そうよ、我輩《わがはい》は外に立っている、君はなかに居給え」
「どうも、気が知れない、この夜寒に外に立ちつくす君の気が知れない、といって、僕ばかりなかにあたたまっていて、君を外に置いて話もできないではないか、なかへ入ってくれ給え、実は都合あって、一時、君の目を避けていたのだが、こうなってみると、聞きたいことが山ほどある、入ってくれ給え」
「いやだよ――こっちはかまわないから、君だけはそこにいて、いま言ったな、何かこの仏頂寺に聞きたいことがあると言ったが、ずいぶん知っていることは聞かせてやろう、遠慮なくたずね給え、こっちにも君には大いに話して置きたいことがあったのだ、峠で逢えずにしまったのを残念に心得ている」

         百二十

 宇津木兵馬は、仏頂寺弥助の柄にない遠慮ぶりが不審でたまりません。
 いつもならば、案内がなくとも闖入《ちんにゅう》して来る男である。
 今夜はいやに遠慮しているうちに、その言う言葉つきがなんとなく冷たい。戸一枚を隔《へだ》てて話をしているようだが、実は幽明を離れて応対しているような心持がしないではない。
「おい、宇津木、うまくやってるな」
と、もう一つ別な声が同じく戸の外から聞えて来ました。
「誰だい」
「わからないかえ」
「もう一ぺん――」
「わかりそうなものだね、僕だよ」
「あ、君は丸山君だな」
「そうだよ、そうだよ、仏頂寺あるところに丸山ありだ」
「君も――」
「仏頂寺と一緒に、うろついて来たよ」
「君も無事で――」
「無事であろうと、有事であろうと、そんなことはいいじゃないか」
「なんにしても意外だ――しかし、何はともあれ、入り給え、今も仏頂寺君にそう言っていたんだが、仏頂寺君がいやに遠慮をしている、変だと思っているところだ、君からさきに、こっちへ入って来給え」
「いや、せっかくだが、僕もよそう」
「どうして」
「どうしてったって、
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