――また言う、わたしの知っている加賀の金沢へ落着いて、そこで、この三百両のお宝を資本《もとで》にして、自前で稼ぎましょうよ、あなた兄さんになって頂戴――あたし、あなたには何も苦労させないで、立派に過して見せますよ。
 ばかな――芸妓屋の亭主気取りで納まっていられる身と思うか。
 それはそれとして、こうなってみると、この女との縁はここでは切れない。加州金沢へ落着きたいと言っているが、とにかく安心のできる人里までは送り届けてやらねばならない腐れ縁だ。
 腐れ縁といえば、信州の浅間の湯から、この女にとりつかれている。浅間の湯の祭礼の晩、この女が酔っぱらって、おれの寝床の中へもぐり込んで、グウグウ寝込んでしまった時からはじまっている。それが、ゆくりなく、中房の湯で、またぶッつかってしまった。やがて、この女に甘えられて、中房から松本まで月の夜の道行とまでなったが、途中でこの女は、仏頂寺、丸山にさらわれてしまったのだ。
 たよられる義理はなかったのだが、たよられてみての上で、見届けることをせず、みすみす仏頂寺の鬼手に任せてしまった後は寝醒めがよくなかった。それから白骨の湯――平湯峠――高山へ出て、またこの女にぶっつかった。
 たずね求める兄の仇机竜之助なるものには、どこをどう探っても行き当らない。掴《つか》み得たかと思うと、さらりと抜けられる。求めんともせざるかよう[#「かよう」に傍点]な女のためには、それからそれと附纏《つきまと》われる。女の方でも必ずしも附纏う気はないのだ。また、自分としても、女に附きまとわれたり、食いつかれたりするほどの罪を作っていないのに、おたがいは、絶えず右と左から堂々巡りをし合って、ばあ――とも言えず、またかと苦笑いしながら、手を取り合っている。
 手を取り合うといったところで、手に手をとって鳥が鳴く東路《あずまじ》……というようなしゃれた道行ではないが、女は兵馬をたよるように出来、兵馬も女を見てやらなければならないように悪く出来ている。これから、名にし負う飛騨の山谷を越えて、加賀の里へ出るまで、この女との二人旅、兵馬はそれを思うとうんざりせざるを得ない。
 そうこうしているうちに、日も暮れる、さし当ってはまた今夜の宿だ。

         百十八

 しかし、その日は、とある山宿に宿を求めることができました。
 山宿といったところで、この辺は、特に宿屋を営んでいるというものはなく、頼めばどこでも泊めてくれる。
 だから、特に客座敷というものもない。木地《きじ》小屋が空いているからといって、そこへ泊めてくれました。
 別座敷へ特に優遇の意味です。
 兵馬は、女がすすめるのも聞き入れず、草鞋《わらじ》を取っただけの旅姿で夜を明かすべく、炉辺の柱にもたれていました。
「わしは旅に慣れているから、これでよろしい、君は慣れない身でもあり、薄着で困るだろう――」
と言って、自分の合羽《かっぱ》をまで女の薄い蒲団《ふとん》の上に投げかけて与えました。
 女は、いろいろとお詫《わ》びしながら、先に寝入ったのです。
 この小屋は、特に木地の細工をするために建てたのですが、壁がありません。がっちりとした板囲いです。
 夜もすがら室内の気温を保つ意味に於て、絶えず適当の焚火《たきび》を怠りませんでした。
 疲れが出たものか、女はすやすやと寝入ったようです。
 兵馬としては、こういう旅の宿りは今にはじまったことでないが、ただ気がかりになるのは前途のことです。およそ白山《はくさん》、白水谷を越えて、飛騨の国から、加賀へなり、越中へなり、出ようとする道は、道であって道でない。
 こういう道を踏み破ることは、自分はあえて意としないが、この女連れだ。この女は、こうして行けばひとりでに白山へも登れるし、金沢へも出られると心得ているらしいが、さて、明日からの旅の実際の味を嘗《な》めさせられてみると、へたばるのはわかりきっている。今晩はここで宿があったからいいが、明日の晩からの宿りは当てがないのだ。
 よし、明日になったら、ひとつ案内人を求めてみよう。それから、馬が通うか、通わないか、山駕籠を金沢まで通して雇えるものか、雇えないものか――そのへんもひとつ確めてみてやろう。
 体《てい》のいい駈落者だ。駈落ならばまだ洒落気《しゃれっけ》もあるが、実はこの女のために、体のいいお供を仰せつかったようなものだ。それもよろしい、自分はこのごろ観念した。
 すべて、追い求めるものは与えられないように出来ている。求めざるものが降りかかって来るようにこの世は出来ている。そこで自分は観念したのだ、決して追い求むるもののためにあせる[#「あせる」に傍点]まい、降りかかって来たものを避けまい。
 これが、このごろ出来た自分の一つの公案なのだ。降りかかって来たものを蹴
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