りほかに手段はない。
無茶な罪跡を隠すためには、やみくもに自分の姿を隠すよりほかはない、と醒めた瞬間にそう気がついたものですから、そこで神尾は走りました。この時の走り方は、方向を選ぶの余裕がありませんでした。一時はもと来た根岸の方向へと思いましたが、また同時に、それはかえって危ないというような本能的のひらめきで、小路、裏路へ向けて走りました。
百十三
自分ながら、どこをどう逃げて、どう落着いたか分らないが、ふと眼が醒めて見ると、神尾主膳は、あたりが全く暗くなっていることと同時に、けたたましい題目と磬《けい》の音とが、耳に乱入して来るのを聞きました。
「ははあ、日が暮れてしまったのだ、あの音で思い出した、そうだったか」
と、自分の身が、薪小屋の中に積み重ねた薪と薪との間のゆとりの中にいることを発見しました。
不思議でもなんでもない。あれから、自分はここへ逃げ込んで隠れたのを、隠れているうちに不覚にも、つい一睡に落ちてしまっていたのだ。この寺は何という寺だか知らないが、やかましく磬を叩いて、お題目を唱えているところを見ると、法華寺《ほっけでら》に違いない。
寺が法華であろうと、門徒であろうと、自分にかかわりのあることではないが、この境内《けいだい》へ逃げ込んで、この薪小屋の中で救われたのは事実だ。ここでホッと安心して、ついうとうと睡魔に襲われているうちに、目をあいて見るともう夜だ。
夜に遅い早いはないというが、遅かれ早かれ、この際、夜になっていたことは仕合せでありました。夜陰ならば、この姿で、けっこう大手を振って根岸まで帰れるのだ――目が醒《さ》めて、あたりが暗くなっていさえすれば、時間に頓着する必要は少しもない。
そう気がつくと、神尾はむっくりと起き上って、衣服の塵をはたはたとはたくと、この薪小屋から未練もなく忍び出したのですが、どちらを見ても真暗です。
暗いところをたどりたどり、表本堂の方へは出ないで、墓地の方の淋《さび》しい裏へと歩き出して見ると、この寺の墓地の区域がなかなかに広大であることを知りました。見渡す限りというのも大仰だが、広い墓地です。大小の墓石が雑然として、なんとなく安達《あだち》ヶ原《はら》の一角へでも迷い込んだような気持がする。
むろん神尾は、ここがどこで――何という寺であるかは知らない。
しかし、常識で考えても、あれからの自分の足で、奥州の安達ヶ原まで走れるはずはないから、いずれ江戸府内、近郊の寺に相違あるまいが、それにしても墓地が広大だと思わざるを得ない。
いずれにしても、この墓地を突切って、垣根の破れでも壊して、往還へ出てしまえばこっちのもの。この墓地の中で怪しまれてはつまらない。幸いなことには、やっぱり暗夜で、誰も神尾を怪しむために、深夜この墓地に待構えている人はない。神尾は広い墓地の中を縦横に歩いて、その出口を求めようとしたが、ありそうでなかなかない。
墓地の中をグルグルめぐりしているうちに、はたとその行手に立ちふさがったものがありました。雲突くばかりの大入道が一つ。これにはギョッとして、思わずタジタジとなったが、改めてよく眼を定めて見直すと、これは巨大なる石の地蔵尊の坐像であったことを知って、いささか力抜けがしました。
右の巨大なる石の地蔵尊が安坐しているその膝元には、まだ消えやらぬ香煙が盛んに立ちのぼり、供えられた線香の量が多いものだから、香火が紅々と燃え立つようになっている。
神尾は、変なところへ来たものだという感じがしました。
百十四
神尾主膳は江戸に生れたけれど、江戸を知らない。知っているところは知り過ぎるほど知っているが、知らないところは田舎者《いなかもの》よりも知っていない。
江戸の場末といっても、自分の足のつづく限りに於て、こんな荒涼なところがあろうとは思いがけなかった。夜だから、無論その荒涼にも割引をして見る必要はあるには相違ないが、それにしてもこれはヒドイ。
だが、まだ石の大きな地蔵の像が、自分の上にのしかかった入道のように見えてならない。その荒涼たるに拘らず、大地蔵の膝元には、右の如く香煙が濛々《もうもう》として立ちのぼり、香が火を吐いて盛んなるところを見ると、宵の口まで人の参詣が続いていたに相違ない。
いったいこれはどこの何というところだ。ただいま身を忍ばしていたのは法華寺だが、この墓地の区切りの散漫なところを以て見ると、あの一寺だけの墓地ではないらしい。こちらにも相当な寺の棟らしいのが見える。してみると共同墓地かな。両国の回向院《えこういん》ででもあるのかな。回向院ならば自分もよく知っている、どう見直しても回向院ではない。第一、回向院は寺とはいえ、もっと和気がある。回向院の墓地にはもっとよく手入
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