れが届いている。回向院にはこんな醜怪な大坊主の石像などはないはず。また、自分の足にしてからが、いくら危急の際でありとはいえ、あれから回向院まで走り続けられるはずはないのだ。よし自分が走り続けられたとしても、周囲の人が許すはずはないのだ。根岸から三輪へかけて、自分の足であの咄嗟《とっさ》の間に走り得られる限りに於て、こんなグロテスクな土地の存在があり得ようとは、神尾はどうしても想像がつかない。一時は、まだ薪小屋の夢が醒めないのではないかと疑ってみました。
思い返してみても実際は実際なのだ。そういう空想に耽《ふけ》るよりは、早くこの現実の場を脱出して、正当な帰途につかなければならぬ、それが急務だ、と主膳の目では、醜怪にも悪魔にも見える地蔵尊の前を過ぎて、ほんの少少ばかり進んだと思うと、
「あっ!」
と、またしてもこの男にも似気《にげ》なく、二の足、三の足を踏んで立ちすくんだかと見るほどに、たじろいで、やっと身を支え得たかのように突立ちました。おともの者があらば周章《あわ》てて、「どうあそばされました」と介抱するところでしょうが、ともはありません。そこで踏み止まった神尾主膳は、また凝然《ぎょうぜん》として闇の中を見ている。
主膳の眼を注いだ方向へ線を引いて見ると、そこにまた恐るべき存在がある。地蔵の姿を悪魔の姿と見た神尾の眼には、これは正銘の悪魔だ、悪魔の戯《たわむ》れだ。悪魔の戯れにしても、これはあまり度が強過ぎる。
人間の生首が四つ、ずらりと宙に浮いているのです。
宙に浮くと言っても、幽霊として現われたのではない。足はないけれども、台はあるのです。三尺高いところの台があって、その上に人間の生首がズラリと並んで、驚く主膳を尻目にかけたり、白眼に見たりしてあざ笑っている。
「獄門だ!」
と主膳は我知らず叫び出すと共に、今までの疑問が発止《はっし》とばかり解けました。
「わかったぞ! これは小塚《こづか》ッ原《ぱら》だ」
そうだ、ここは俗に千住の小塚ッ原、一名を骨《こつ》ヶ原《はら》という――仕置にかけて人間を殺すところなのだ。
百十五
ところは転じて飛騨《ひだ》の国、高山の町の北、小鳥峠の上。
「どうにも手のつけようがない」
仏頂寺弥助と丸山勇仙の自殺した亡骸《なきがら》を前にして、泣くにも泣けなかった宇津木兵馬は、手のつけようも、足の置き場もない思いをして呆然《ぼうぜん》と立ちました。
少し離れたところの、樅《もみ》の木蔭に隠れていた芸妓《げいしゃ》の福松は、兵馬が立戻って来ることの手間がかかり過ぎることに気を揉《も》み出し、
「相手が悪いから心配だわ」
秋草の小鳥峠の十字路から、かなり離れたところの木立の蔭で、福松がひとり気を揉んでいるのは、なるほど相手が悪い。もし、先方で気取られてしまった日には、宇津木さんも袖が振りきれない。捉まってしまった日には、しつこくからみつかれてどうにもなるまい。
宇津木さんという方は、お若いに似合わず、剣術の腕にかけては素晴らしいとの評判は、この高山で聞いているけれど、相手のあの仏頂寺という悪侍が、一筋縄や二筋縄のアクではない。
宇津木さん、早く戻って来て下さればいい、こう思って芸妓の福松は、木蔭からちょっと首を出して、秋草の小鳥峠の十字路の方を見透そうとしたけれど、目が届きません。
さりとて、へたに離れてこのわたしというものが、仏頂寺に見つけられでもしたら、それこそ最後――
福松は、それを懸念《けねん》しながら木蔭を出たり離れたりして、兵馬の安否を気遣《きづか》いましたけれど、兵馬から音沙汰《おとさた》がなく、そうかといって、仏頂寺との間に、見つけた、見つけられた、という問題を起しているような形勢は少しもない。
それだけに、福松はまたいっそう気を揉んで、隠れがの樅の木立の下を一尺離れて見たのが二尺となり、三尺となり、一間となり、二間となって見たが、なんらの動揺が起らないのです。
とうとう我慢しきれなくなって、三間と、五間と、這《は》うようにして叢《くさむら》の中を廻って見ますと、秋草の中に立っている宇津木兵馬の姿をたしかに認めました。
呆然として、ただ立ち尽しているのです。
笠も、合羽もつけないで、黒い紋附に、旅装い甲斐甲斐しい宇津木兵馬の立ち姿が、秋草の乱れた中に立ち尽していることだけは、間違いなく認められたものですから、福松は我を忘れて呼びかけようとして躊躇しました。
まだいけない。ああして、宇津木さんも、じっと様子を見て思案してらっしゃる。わたしがここで大きな声を出した日には、ブチこわしになるかも知れない。
では、ここでもう少し、様子を見届けて……
福松はこう思って、一心に叢の蔭から兵馬の立ち姿を見つめていると、兵馬はじっとただ地
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