えりさえすれば神尾のことだから、相当要領よく遁《のが》れて、余炎《ほとぼり》を抜くまでどこぞに忍ばせているだろう。
 そこで、悪食連も、いいかげんで探索を打切って、それから一方へ鐚を寝かして置いて、一室に集まったが、これで正七ツも過ぎてしまい、せっかくの趣向の悪食も、その日はそれでお流れです。
 悪食はお流れとしても、こう面を合わせてみると、それからそれと余談に花が咲いて、思わぬところへ話の興が飛びます。
 本来、これは悪食の会ではありますけれども、悪人の会ではないのです。それは会員に神尾及び神尾もどきのもあるにはあるが、人間は決して悪くはない。ただ悪食《あくじき》そのものだけに、多少の好奇を感じて誘惑されて来た人もあるのですから、なかなか耳を傾けるに足る言説も出て来るのです。
 そのうちに、一つの話題の中心となったのは、当時けしからぬのは芝の三田四国町の薩摩屋敷だということです。
 あれは、白昼、天下の膝元へ大江山が出来たようなものだ。たかの知れた浮浪人どもの仕業《しわざ》と見ているうちに、昨今いよいよ増長して、断然目に余る。
 大江山に棲《す》む鬼共が、帝京の地に出没して物を掠《かす》め、女をさらって行ったように、彼等は三田の薩摩屋敷を巣窟として、白昼、お膝元荒しをやっている。
 その奇怪の亡状――上野の山内にまで及んでいるということだ、もはや堪忍《かんにん》が成り難い、当然、目に物見せてやらなければならぬ、近いうち――
 こういう問題になると、悪食連の中に、おのずから真剣味が湧いて来ました。これらの連中は、大小高下にかかわらず、いずれも直参《じきさん》という気性は持っている。慷慨義憤の士というわけではないが、宗家が辱しめられるということになると、決していい気持はしない。剣を撫《ぶ》して起つような気概もありました。

         百十二

 神尾主膳は、百姓を斬って異常なる昂奮から醒《さ》めた瞬間には、どう考えても、自分の行動が無茶であったとしか考えられません。
 では、今日まで、無茶でない仕事を、神尾主膳がどのくらいして来たかとたずねられるといささか窮するでしょうが、それにしても、今日のこの行動は、無茶過ぎるほどの無茶であることを考えさせられる。
 千住三輪の街道というものは、神尾が通行するために特に作らせた街道ではない。天下の大道である以上、百姓が通って悪いという理由はさらにないのです。
 しかし、仮りに神尾主膳をして大名の格式を持たせた時には、下に下にの下座触《げざぶれ》で、百姓を土下座させて歩く権式を与えられていたかも知れないが、いかなる将軍大名といえども、眼ざわりであるが故《ゆえ》に斬ってよろしいという百姓は一人もないはずです。神尾が今日、人を斬ったのは、毫末《ごうまつ》も先方が無礼の挙動をしたからではない。
 百姓町人が武士に対して無礼を働く時は、それは武士の面目のために斬り捨てても苦しうないという不文律はある。それはあるけれども、そういう場合ですら、斬らずに堪忍できる限り、堪忍するのが武士の武士たる器量である――という道徳律もある。今、ここで通りかかった百姓は、果して水戸在の百姓であったかどうか、分ったものではない。ただ通りかかったというだけで、なんらの宿怨《しゅくえん》も、無礼もあるものではない。
 強《し》いて言えば、向うが突き当ったというけれども、先方が突き当ったというよりは、神尾の歩きぶりに油断があったのである。それを一言の咎《とが》め立てもなく、理解もなく、やみくもに斬りつけたのだから、誰がどう考えても理窟はないのです。それはまだ、夜陰に乗じて無断で人を斬る流儀もあるにはあった。しかしそれは「辻斬り」という立派な(?)熟語まで出来ている変態流行である。時としては、刀の利鈍を試むるために、手練の程度を確むるために、或いは胆力を養成するために、この変態の殺人を、暗に武士のみえとした風潮もある。今いうような単に「無礼討ち」ということは有り得るが、神尾のように白昼、無茶に斬りつけるということはない。「昼斬り」「町斬り」というような熟語は、まだ出来ていない。
 そこで神尾は、自分の行動の全く無茶であったことを考えずにはいられなかったのですが、そうかといって、決して後悔や憐憫《れんびん》を感じたのではないのです。罪なき百姓を斬ってかわいそうだと思いやり、我ながら浅ましいことをしてけり、と後悔の発心をしたわけでは微塵ないのです。百姓なんぞは幾人斬ってもかまわない、このくらいのことで、済まなかったと考える神尾ではないが、ここで捕まれば一応再応は吟味を受ける、そうなると必ず自分の分が悪くなる、そこで、取押えられてはならない、この場合は一刻も早く逃げなければならない、何を措《お》いても身を隠すことが急だ! それよ
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