百十

 鐚が飛び込んで玄関に倒れた屋敷の中の広間では、十名ばかりが集まって、大きなしがみ火鉢を中にして、いろいろと話をしていました。
「三《み》ツ目《め》錐《ぎり》は、今日は大へん遅いじゃないか」
と、その中の一人が言いました、三ツ目錐といえば、むろん神尾主膳のことでしょう。してみると、神尾は、たしかにこの家を目的に出かけてきたものに相違ない。
「鐚《びた》が――そそのかしに行ったはずだ」
と同人の一人がまた言いました。鐚というのは即ち金助のことに相違ない。してみると、神尾が今日この席へ来ることも、神尾を誘惑に鐚を遣《つか》わしたことも、これらの連中の差金《さしがね》であるか、そうでなければ、いずれも同腹と見なければならぬ。さればこそ、鐚の奴も、命からがらああして逃げては来たが、やっぱり本性は違《たが》わずに、落着くべきところへ落着いたのだ。
「それにしても遅いな」
「遅いよ――鐚に申し含めてあるのだから、抜かりはないはずなんだが」
「正七ツ、三輪《みのわ》の金座――それは間違いないな」
「金座違いで、本町の方へでも出かけやしないか」
「そんなはずはない、鐚がよく心得ている」
「あんまり遅い」
「根岸からだから、ホンの一足だ、拙者は青山から来ている」
「拙者は割下水《わりげすい》――」
 彼等は、ひたすら神尾と鐚とを待兼ねている。それがこの問答でもよくわかる。
 してまた、問題の三輪の金座というのも、この問答によって、ほぼわかりかけている。現に道楽者が集まって、神尾の来ることを待ちわびているこの屋敷が、即ちいわゆる三輪の金座なのだ。
 なぜ三輪の金座なのか。なるほど、そう言われればそうだ。ここは金座頭の谷八右衛門の屋敷だ。主人は上方《かみがた》へ出張して目下不在中である。その留守宅へ、これらの連中は江戸の東西南北を遠しとせずして、定刻にほぼ集まっている。
 その集会の目的が「悪食《あくじき》」であることは勿論《もちろん》である――悪食というのは、イカモノ食いにもっと毛を生やしたもので、食えないものを食う会である。つまり、食えるものは食い尽した者共の催しであるから、集まって来た者の人格のほども、ほぼ想像がつくのであって、神尾に幾分割引をした程度の者か、或いはそれに※[#「しんにゅう」、第3水準1−92−51]《しんにゅう》をかけた程度のものが集まっていると見れば差支えないが、さりとて、相当堅気のものも好奇《ものずき》で寄って来ている。
 悪食には、品質を主とするものと、趣向を先とするものがあって、品質を主とするものには、蜥蜴《とかげ》の腸だの、蛇の肝だの、鰐《わに》の舌ベロだのといって、求めても容易に得られざる悪食を持寄って、そのあくどい程度に於て優劣がある。趣向を主とするものには、材料そのものは、あえて珍奇であることを必要としない、その材料の取扱い方によって、悪食の気分を豊富にする。
 今日の会は、その後者を撰んだのでありました。すなわち材料そのものは、つとめて通常の材料をとり、これをできるだけ嘔吐《おうと》を催し、嫌悪《けんお》を起させる悪食に変化して食わせることに腕を見せる――というのが、今日の趣向であったのです。
 そこで、みな相当に腕によりをかけて、その趣向を充たさせて、今か今かと待構えているうちに、会員の一名、神尾が来ない。それを待侘《まちわ》びているうちに、玄関のけたたましい叫び――人間が一人ころがり込んで、息が絶えてしまったのです。

         百十一

 そこで、悪食連も驚いて出て見ると、玄関に転げ込んで、かわいそうに息が絶えているのは、今も今、問題にしていた鐚でした。
「鐚だ」
「鐚が気絶している」
「水を吹きかけろ」
「鐚――鐚やあーい」
 呼び続けると、直ちによみがえりました。
「鐚――気がついたか」
「鐚――しっかりしろ」
「鐚――」
 広間へ担《かつ》ぎ込んで、そうして事情を聞いてみると前段の始末です。
 それ! と集まった悪食連のうちから、逸《はや》り男《お》が飛び出してみたけれども、もう後の祭りで、町の巷《ちまた》の動揺もすっかり静まり返っていたところですから、手持無沙汰で帰っては来たが、このままでは済まされない。鐚は鐚で休息させて置いて、一手は神尾の行方を突きとめにかかりました。
 しかし、それも大っぴらにしてはかえっていけない。神尾のやり方が穏かでないにきまっているから、騒いだ日には藪蛇《やぶへび》になるばかりか、自分たちもとばっちり[#「とばっちり」に傍点]を蒙《こうむ》るにきまっている。内々で手分けをして探してみたけれど、根岸の宅へも戻っていない、さりとてとり押えられたという気配もない。杳《よう》として消息が知れないから、まあもう少し落着いてゆるゆる探してやろう。本心に立ちか
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