脇見をしながら歩いていたのが、はからず神尾にぶつかってしまったので、それがちょうど、百姓を呪い、水戸を憎んで、悪気が全身に充満していた神尾のことですから、たまりませんでした。
「無礼者! 貴様は水戸の百姓か」
勃然として神尾主膳は脇差を抜いてしまったのです。抜いてただ威《おど》すだけならまだしも、百姓を呪い、水戸を憎む一念が、つい知らず、その抜いた脇差の切先まで感電してしまったので、
「人殺し!」
ぶっつかった人間は、怖ろしい絶叫をしながら、もと来た方向、つまり千住大橋の方へ向って無二無三に逃げ出したのです。
「そうれ、人殺しだ!」
白昼、四宿《ししゅく》の中の往還のことですからたまりません。
殺気がみるみるその街道に充溢して、忽《たちま》ち往来止めの有様でした。
主膳は眼を吊《つる》し上げて、脇差の抜身を持っている。その地面にはたしかに血の滴《したた》りがあり、脇差の切先にも血がついている。道行く人は逆転横倒する。
「無礼者! 貴様は水戸の百姓か」
今日は酒乱とは言えない昂奮ですが、昂奮の程度が、もはや酒乱以上に達している。
再び脇差を振りかぶった神尾主膳は、そのまま群集の中に殺到しました。
それは、当るを幸いに斬るつもりはなかったのでしょう。自分ながら、思わぬ昂奮からやや醒《さ》めてみると、あたりの光景がもう許さないものになっている。理不尽《りふじん》に人を斬った狼藉《ろうぜき》武士――袋叩きにしろ、やっつけてしまえ、という空気がわき立っている。
百九
その時に、目の色を変えた鐚《びた》が、周章《あわ》てふためいて神尾主膳にとりつき、
「殿様、な、なんとあそばします」
それを突き放した神尾主膳が、
「逃げろ! 鐚」
と言って、一ふりその脇差を振り廻したところが、それがほんの糸を引いたほど、鐚の頬をかすったものですから、真甲から断ち割られでもしたもののように、鐚が後ろへひっくり返ると共に、頬を抑えて起き上り、脱兎の如く逃げ出しました。
群集の中へ殺入した神尾主膳の姿も、いつしか見えなくなって、町の巷《ちまた》が恐ろしい空気の動揺を残しているだけです。
「斬った!」
「斬られた!」
と、千住三輪街道は、往《ゆ》くさ来るさの人が眼の色を変えて騒ぐけれども、斬った当人の姿はいつしか見えず、斬られた本人は、どこへどう逃げたか行方知れず、斬った当人は相当身分のありそうな姿をしていたが、それも一目散に逃げてしまって行方がわからない。
これによって見ると、神尾主膳は一旦むらむらとして、例の病気から、前後を忘れて脇差を抜いて、通りがかりの者をひとたち斬ったには相違ないが、血を見た瞬間に自分も醒めたものらしい。酒乱の時は知らぬこと、今日は乱れるほど酒を飲んでいない。むかっとやっつけたが、血を見た瞬間、これはやり過ぎた! と覚ったものと見える。そうして自分は群集の中へ殺到するように見せて、実はその中を突抜けて、早くも身を隠してしまったのだ。その行きがけに鐚をも振り飛ばして、何でもかまわず早く逃げろと言った。
この要領で、加害者側の二人は姿を消してしまったのだが、気の知れないのは斬られた方の被害者です。
理不尽に斬りつけられたのだから、驚くのは当然であり、驚いて一時は前後不覚に逃げ出すのも当然であるが、それも程度問題で、後顧の憂えがなくなってしまいさえすれば、改めて訴えて出るか、身辺の人に、その危急を物語るとか、そうでなければお医者へ駈込むとか、担《かつ》ぎ込まれるとか、何とかしなければならないのに、こいつがまた全く行方不明でありました。
だから、この騒動は、動揺だけはずいぶん烈しく、いまだに附近の人心は恟々《きょうきょう》としているのですが――当事者は、加害被害ともに跡かたもなくなっている。騒動は騒動だが、狐につままれたようになっている。
「斬ったのは、身分ありげな侍だ」
「斬られたのは、水戸の百姓だ」
「斬ったやつには、お供が一人ついていた」
「そいつはたぬき[#「たぬき」に傍点]のような奴だった」
「斬ったおさむらいは、旗本のおしのびらしい」
「斬られたのは、水戸の百姓」
どちらも根拠のある説ではないが、斬られた方を、水戸の百姓ときめてしまったのがおかしい。
かくて、神尾の行方はわからないが、鐚は鐚であれから一目散に、横っ飛びに飛んだけれども、本来、転んでも只は起きないふうに出来ている男だから、横っ飛びにも一定の軌道があって、まもなく同じ三輪の町の、とある非常に大きな構えの門内へ飛び込むと、雪駄《せった》を片足だけ玄関の上に穿《は》き込んで、
「た、た、たいへんでござります」
と言って、頬っぺたを抑えたままその玄関に倒れると共に、息が絶えてしまったのはかわいそうです。
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