ったと、今日まで伝えられているのだ。
 毎年の秋、幕府直轄の「天領」を支配する代官が、その任地に帰ろうとする時、家康はこれらを面前に呼びつけて、郷村の百姓共をば、
「死なぬように、生きぬようにと合点《がてん》いたし、収納申付くべし」
と申しつけたということである。
 その伝統を承って、これは家康の落胤《らくいん》だといわれた土井大炊頭《どいおおいのかみ》の如きは、ある年、その居城、下総の古河に帰った時、前年までは見る影もなかった農民の家が、今は目に立つようになって来たとあって、
「百姓、生き過ぎはしないか」
と、部下の役人に詰問的の問いをかけたということになっている。
 その当時の一村の名主の家には、必ず水牢、木馬の類が備えてあったのだ。百姓共が年貢を滞納する時は、水牢に入れ、木馬に乗せて、これを苦しめたものだ。
 それだけを聞いていると、いかにも農民に対して、血も涙もない遣《や》り方のように聞える。徳川家は、農民を見ること牛馬以下であって、農民にとって徳川家は仇敵《きゅうてき》ででもあるかのように聞えるが――事実、天下を政治するものが、好んで農民を苦しめたがる奴があるものか、苦しめるには苦しめるだけの理由があるからだ、苦しめられる方は、苦しめられるだけの因縁があるからなのだ。
 いったい、発祥時代の徳川家の地位を考えてみるがいい。天下は麻の如く乱れて四隣みな強敵だ。その間から千辛万苦して、日本を平らかにする――勢い兵馬を強からしめねばならない。兵馬を強からしめるには、後顧《こうこ》の憂《うれ》いを断たなければならない。兵馬を強からしめるには、兵馬を練ればよろしいが、後顧の憂いなからしむるためには、百姓を柔順にして置かなければならぬ。百姓は、矢玉の間に命がけで立働くには及ばない代り、柔順に物を生産して、軍隊の兵站《へいたん》を補充しなければならない。万一、百姓を強くして、これに反抗の気を蓄えしめた暁には、強い戦争ができるはずはない。そこで百姓を骨抜きにしておかなければ、軍隊を強くして、天下を平定することはできないのだ。だによって、家康が百姓をおさえたのは、武力を伸ばさんため。武力を伸ばすのは、天下を平定せんがためなのだ。そうして、家康はそれに成功したのだ。天下の平和のために、百姓を犠牲にしたのだ。百姓をいじめたいから、自分が栄華をしたいから、そこで百姓を虐待したわけではないのだ。現に百姓共が、安穏《あんのん》に百姓をしていられるのも、この徳川の武力あればこそではないか。強い武力がなければ、国は取られ、田は荒され、百姓は稼《かせ》ぐところを失うどころか、稼ぐべき田地をさえ持つことはできない。
 だから、百姓は百姓として、分を知って服従していさえすればいいのに、ややもすれば反抗したがる。表面服従して、少し目をはなせば一揆《いっき》を起したがるのが百姓だ――ことに近来は、一揆の無頼漢の音頭を取るものを称して「義民」だのなんのと祭り上げる輩《やから》が多いから、百姓がいよいよ増長する。そもそも、百姓をかく増長せしめた近来での大親玉は、水戸の光圀《みつくに》だ――

         百八

 神尾主膳の頭の中にまたしても、真黒い雲がうず巻いて来ました。
 そもそも、この徳川の宗家にとって害物であるところのものは、水戸以上のものはない。
 水戸は徳川の一家でありながら、最初から徳川の根を枯らすことばかりやっている。そうして大向うからは人気を取っている。
 神尾主膳が水戸を毛嫌いをしていることは、今に始まったことではないのです。
 何か機会があると、まず光圀を槍玉に挙げる。あの光圀を天下の名君の如く騒ぐ奴の気が知れない。あれは謀叛人《むほんにん》だ、徳川にとって獅子身中の虫なのだ。あれは最初から宗家に平らかならざることがあって、池田光政あたりと通謀して、天下を乗取ろうとした腹黒い奴である。大日本史を編んだり、楠公《なんこう》の碑をたてたり、また、いやに農民におべっかをつかって、下に親しむように見せかけるのが水戸の家風だ。その実、家中は党を立てて血で血を洗っている。あの斉昭《なりあき》の行状を見るがいい、烈公が何だ――その血筋を引く一橋が本丸に乗込んだ。思い通り天下を乗取って水戸万歳のようなものだが、いまに見ていろ、徳川を売るのは水戸だ――
 神尾は、やみくもにこういうふうに邪推して、水戸を憎がっている。しかし、この男としては公然とそれを唱えて、同志を作って、その売られんとする宗家のために戦うというような気概があるわけではない。ただ、むしゃくしゃと、そう感憤激昂して、水戸を毛嫌いしている――
 こういうむしゃくしゃ腹で、薬王寺前あたりへ来た時に、どんと無遠慮に神尾の前半にぶつかったものがありました。
 それは、わざとぶつかったものではない、
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