らようやく、金助改めびた[#「びた」に傍点]公が、今日ここへ神尾をそそのかしに来た来意のほどを申し出る段取りになりましたが、その問答は、
「時に、今日は例の悪食《あくじき》の御報告を兼ねて推参、ぜっぴおともが仰せつけられたい――ところは三輪《みのわ》町の金座――時間は正七ツ――」
ということの誘いでした。
「行こう」
神尾が一議に及ばず賛成したものですから、
「有難え――」
と仰山《ぎょうさん》らしく、びた[#「びた」に傍点]助が自分の頭を叩いて、そうして、駕籠《かご》を、乗物をというのを断わって、神尾が、
「三輪までは一足だ、ブラブラ歩こうではないか」
「結構でげす、金座へ向けてブラブラ歩き、これが当時はやりの金ブラでげす」
神尾主膳は、縮緬《ちりめん》の頭巾を被《かぶ》って三ツ眼の一つにすだれをおろして、一刀を提げて立ち上ると、びた[#「びた」に傍点]はころころしながらその後について、外へ出かけたのですが、その目的地は今もびた[#「びた」に傍点]公が言った通り、三輪町の金座――というところであり、その目的は悪食――にある。けだし、相当のものであろうと思われる。
百六
金助改めびた[#「びた」に傍点]公が、神尾主膳をそそのかして外へ引っぱり出しました。びた[#「びた」に傍点]公がそそのかした建前《たてまえ》を聞いてみると、今日の正七ツ時――悪食の会、ところは三輪の金座――というところになっていて、神尾もそれを先刻御承知のもののように、一議に及ばず出動ということになったのだが、悪食の会は悪食の会でよろしいとして、三輪の金座とはどこだ。
金座といえば、一昨年焼ける前まで、日本橋の金吹《かねふき》町に在《あ》ったはずだが、それが、三輪方面へ移転したという話は聞かない。では、銀座の間違いではないか。銀ブラ――道庵先生でさえハイキングをやる世の中だから、この両デカダンが銀ブラを企てることもありそうなことではあるが、当時にあっても銀座といえば、やっぱり京橋から二丁目あたりの地名ではあるが、電車も、バスも、円タクもない時代に、根岸からではブラブラの区域にならない。
果してこの二人は、江戸の中心地を目指して進んで行くのではなく、根岸から東北へそれて行くのは、当然、びた[#「びた」に傍点]が先刻言明した通りの、三輪あたりを志すものに相違ない。根岸から三輪ならば、相当のブラブラ区域です。
神尾主膳も一議に及ばず、びた[#「びた」に傍点]の勧誘に応じて出動したくらいですから、最初のほどはかなり気をよくして、ブラブラ歩き出したものですが、そのうちに、またも気色《きしょく》を悪くしてしまいました。
それは、あの辺には、寺と、広い武家屋敷とのほかに、百姓地が多くある。それからまた、千住《せんじゅ》から三輪街道のあたりは、かなりの百姓街道になっている。
もとより、往来するものは百姓だけではないが、あいにく、この日に限ったことではないが、近在の百姓連が多く、それも、神尾の姿を見て、多少の畏憚《おそれ》を以て行き違うものもあるが、どうかすると、あぶなく突き当りかけて、かえってこっちの間抜けを罵《ののし》り顔に過ぎて行くものもある。
その百姓を見る時に、神尾の気色がまた悪くなりました。
神尾は生れながら、百姓というものは人間でない――ものの如く感じている。
それは、当然、階級制度の教えるところの優越性も原因することには相違ないが、それほど神尾というものが、百姓を、忌み、嫌い、呪うというのは、別にまた一つの歴史もあるのです。
それは、神尾の先祖が、百姓を搾《しぼ》ろうとして、かえって百姓からウンと苦しめられ、いじめられている。神尾の祖先のうちの一人が、自分の放蕩費の尻を知行所の百姓に拭わせようとしたために、百姓|一揆《いっき》を起されて、家を危うくしたことがある。
体面の上からは勝ったが、事実に於ては負けた。領主としての面目は辛《かろ》うじて立ったが、内実は百姓の言い分が通ってしまったのだ。だから、心ある人は、それから神尾の家風を卑しむようになっている。
その歴史が今も神尾を憤らせている。百姓というやつは、厳しくすれば反抗する、甘くすればつけ上る――表面は土下座しながら、内心ではこっちを侮っている、最も卑しむべき動物は百姓だ――これには強圧を加えるよりほかに道はないと、それ以来の神尾家は、代々そう心得て百姓を抑えて来ていた。今の神尾主膳も、百姓を見ると胸を悪くすること、その歴史から来ている。
百七
この点に於て、神尾主膳は徳川家康の農民政策を支持している。
「権現様の収納の致し様」といって、百姓は生かしもせず、殺しもせざるようにして搾《しぼ》れ、ということが、すなわち徳川家康の農民政策であ
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