えると、主膳はたあいもなく納まる。そうでなければ酒だ。傍えに酒があれば手当り次第にあおることによって、この興奮を転換させる。転換ということは解消ではない。一時、その興奮を酒に転換させて、方向だけをごまかしてみるだけのもので、酒をあおるほどに、興奮がやがて捲土重来《けんどじゅうらい》して、級数的にかさ[#「かさ」に傍点]にかかって来るのは眼に見えるようなもので、そこで例の兇暴無比なる酒乱というやつが暴れ出して来て、颱風以上の暴威を逞《たくま》しうする。
 今日は、この場にお絹がいない――酒がない。
 お絹は異人館へ泊り込んでいる。
 酒類は一切隠されている。使を走らせても、近いところの酒屋では融通が利《き》かないことになっている。主膳は立って荒々しく押入や戸棚をあけて見たけれども、この興奮に応ずる何ものもない。
 そこでまた、机の前に坐り直したけれども、どん底からこみ[#「こみ」に傍点]上げて来る本能力をどうすることもできない。三ツの眼が烈しい渇きを訴えて、乳を呑みたがる、真白い乳を呑みたがる。咽喉《のど》の方は咽喉の方で鳴り出して、酒を求めて怒号しているのに、眼は乳を呑みたがっている。
 当るを幸い――主膳は机の上の硯《すずり》をとって、発止《はっし》と唐紙《からかみ》へ向って投げつけました。硯の中には宿墨《しゅくぼく》がまだ残っていた――唐紙と、畳に、淋漓《りんり》として墨痕《ぼっこん》が飛ぶ。

         九十九

「いや、これは驚きやした、これはまことにおそれやす――屋鳴震動《やなりしんどう》」
と変な声を出して、いま神尾主膳が硯《すずり》を投げ飛ばしたその間から、抜からぬ面《かお》を突き出したのは、例によって、のだいこのような鐚助《びたすけ》(本名金助)という男で、こいつが今日はまた一段と気取って、縮緬《ちりめん》のしきせ羽織をゾロリと肩すべりに着込んで、神尾の居間へぬっぺりと面を突き出したものです。
「鐚助か」
「殿様、いったい何とあそばしたのでげす、我々共がちょっと目をはなしますてえと、これだからおそれやす」
「鐚助、いいところへ来た、今日は朝からむしゃくしゃしてたまらないところだ、面《つら》をだせ、もっとこっちへ面をだせ」
と神尾主膳が、やけに言いますと、金助改め鐚助が、
「この面でげすか、この面が御入用とあれば……」
「そうだ、そうだ、その面をもっと近く、ここへ出せ」
「いけやせん、もともと金公の面なんて面は、出し惜みをするような面じゃがあせんが、それだと申して、殿様のその御権幕の前へ出した日にゃたまりません」
「出さないか」
「出しませんよ、決して出しません、いい気になってつん出した途端を、ぽかり! 鐚助、貴様のは千枚張りだから、このくらい食わしても痛みは感じまい、どうだ、少しはこたえるか、なんぞと来た日にはたまりませんからな。こう見えても、面も身のうちでげす」
「どうだ、びた[#「びた」に傍点]助、今日は十両やるから、その面をひとつ、思いきりひっぱたかせてくれないか」
「せっかくだが、お断わり申してえ、これで、お絹さまあたりから、びた[#「びた」に傍点]公や、お前のその頬っぺたをちょっとお貸し、わたしにひとつぶたせておくれでないか、気がむしゃくしゃしてたまらないから、ひとつわたしにぶたせておくれ、てなことをおっしゃられると、ようがすとも、鐚公の面でお宜しかったら、幾つなとおぶちなさい、右が打ちようござんすか、それとも左がお恰好《かっこう》でげすかと、こうして持寄って、たあんとおぶたせ申しても悪くがあせんがねえ、殿様の腕っぷしでやられた日にはたまりませんや、これでも鐚助にとっては、かけがえのねえたった一つの親譲りの面なんでげすからなあ」
「ふん――ちゃち[#「ちゃち」に傍点]な面だなあ、陣幕や小野川の腕でぶたれたんなら知らぬこと、この尾羽《おば》打枯らした神尾の痩腕《やせうで》が、そんなにこたえるかい、一つぶたせりゃ十両になるんだ、この神尾の痩腕で……」
「どういたしまして、殿様のなんぞは、そりゃどちらかと申せばきゃしゃなお手なんでげすが、何に致せ、もとは鍛えたお手練でいらっしゃる、手練がおありなさるから、たまりませんや」
「は、は、は、わしはあんまり武芸の手練はないぞ、若い時、もう少し手練をして置いたらと思われるが、つい、酒と女の方に手練が廻り過ぎてしまった」
「いや、どういたしまして、何とおっしゃっても、お家柄でございます、殿様のお槍のお手筋などは、御幼少から抜群と、鐚助|夙《つと》に承っておりまするでげす」
 意外にも神尾は、こののだいこ[#「のだいこ」に傍点]から自分の武芸を推称されたので、少しあまずっぱい心持がしてきました。

         百

 なるほど、おれは旗本としては、やくざ旗
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