本の標本みたようなものだ。武士としては、箸にも棒にもかからぬのらくら武士だ。
 だから、その点に於ては、微塵、人も許さず、自分も許してはいない。武術鍛錬のことなどが、おくびにも周囲の話題に上ったことはないのだが、只今、偶然にも、このおっちょこちょいの口から、武芸のことが飛び出して来た。
 それを主膳は小耳にひっかけて、奇妙な気になった途端から、昂奮が少しずつ醒《さ》めてきました。
 その気色が緩和された様子を見ると、人の鼻息を見ることに妙を得たびた[#「びた」に傍点]助は、するすると神尾の間近く進んで来ました。もう打たれる心配も、叩かれるおそれもないと見て取ったのでしょう。果して御機嫌の納まりかけた神尾は、対話になってから、自分ながら事珍しいように、びた[#「びた」に傍点]助に向ってこんなことを言いかけました――
「なるほど――びた[#「びた」に傍点]公、貴様に今おだてられて、おれは変な気になったのだがな」
「変な気などにおなりになってはいけやせん、その変な気になりなさるのが、殿様の玉に瑕《きず》なんでげす」
「変な気だといって、どんなに変なんだか貴様にわかるか」
「変な気は変な気でげすよ、変った気色《きしょく》でげすな、いわば正しからざる気分でげしょう、正は変ならず、変は正ならず、変は通ずるの道なり、君子の正道じゃあがあせん」
「くだらないことを言うな、今おれが言った変な気というのは、貴様にいま言われて、なるほどそうだと気がついたのは、おれの家も旗本では武芸鍛錬の家で、おれも子供の時分から相当武芸を仕込まれていたことだよ、ことに槍に於ては、手筋がよくて、師匠からも見込まれたものなんだ、それを貴様、どこで聞いて来た」
「でげしたか。さような真剣な御質問でげすと、鐚助も恐縮――どこで聞いたとおたずねになりましても、よそほかから伺うところもございません、お絹様から伺いやした」
「そうか、あの女は、おれの子供時分からのことを知っている、知らないにしても、人から聞いているだろう」
「まずその如くでげす、大殿様が、あれでなかなか武芸のお仕込みはやかましくていらっしゃったものでげすから、幼少の折より若様へは、みっちり武芸をお仕込みの思召《おぼしめ》しで、ずいぶん厳しかったものなんだそうでございます」
「その通りだ、子供の時分から、いい師匠についてやらせられたのだ、だが、仕込まれた武芸の稽古より、仕込まれない外道《げどう》の稽古の方が面白くなってしまったのが、この身の破滅だよ」
「につきまして、憎いのは、あのお絹様て御しんぞ[#「しんぞ」に傍点]なんでげす」
「どうして」
「憎いじゃがあせんか、肉を食っても足りねえというのが、あの御しんぞ[#「しんぞ」に傍点]なんでげす、憎い女でげす」
「どうして、お絹がそんなに憎い」
「先殿様に、それほど御寵愛《ごちょうあい》を受けておりながら、その若様を、そんなにまで破滅に導いた、その有力な指導者は、つまり、あのお絹様じゃあがあせんか」
「いや、そういうわけでもないよ、あいつだけが悪いのじゃない――」
と言ったが、神尾主膳はここでまた、むらむらと浮かぬ気になりました。
「鐚《びた》!」
 本名の金助を、神尾は「金」では分に過ぎるからと言って、鐚と呼んでいる。そう呼ばれて、こいつがまた納まっている――

         百一

 いったん緩和しかけた神尾主膳の癇癪《かんしゃく》が、その時にまたむらむらっときざ[#「きざ」に傍点]して来たのは、お絹という名を呼ばれたその瞬間からはじまったらしいのです。
 そんなことにお気のつかない金公は、いい気になって、
「全く以てあのマダム・シルクときた日には、いつ、どこへお年をお取りなさるんだかわかりません、たまらないものでげす、ぶち殺してやりたいようなもんでげす」
と、ベラベラ附け加えてしゃべってしまったので、神尾の三つの目がまたも炎を出しながら、クルクルと廻転しました。
「びた[#「びた」に傍点]公!」
と言った神尾の権幕の変っているのに思わずゾッとした鐚助は、それでも、これは食べつけている例の病気だなと、甘く見ることをも心得ているものですから、さあらぬ体《てい》で、それをあやなすつもりで、
「何事でげすかな」
「あの絹という女は、ありゃ、今では真実ラシャメンになりきっているのか」
「いや、これはこれは、事改まって異様なるおんのうせ」
 扇子でピタリと自分の頭を叩いて言いました。
「お絹様――ペロに翻訳をいたしましてマダム・シルク――あの方が、真実正銘のラシャメンになりきったかとの御尋ね、これはほかならぬお殿様のおんのうせとしては甚《はなは》だ水臭い」
「野《の》だわ言《ごと》を申さず、はっきりと白状しろ、あの女は、このごろは異人館へ入りびたりだ、ちっともここへは
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