も勤王なんかと言わねえ先から勤王を唱えてな、日本の政治は天子様のお手元へお渡し申さなくちゃいかん――という説を唱えたもんだから、関東のお役人に睨《にら》まれて、とうとう首を斬られてしまっとうだ」
「えッ!」
 首を斬られたと聞いて、聞いている者が驚きました。
 そういうエライ人、有名な人で、他国の者までお墓へ参詣に来る、ことに徳大寺様といったような、天子様御親類筋に近い身分の方までが御参詣に来るくらいだから、よっぽどエライ人に違いないと思って、与八をはじめ聞いていたのに、その人が突然首を斬られたと聞いたものですから、聞いていた二人が、えッ! と言って眼を見合わせたので、富作さんも、世を憚《はばか》るように声を低くして語りつぎました、
「大弐様はエライ大学者でね、朝廷のお公卿様《くげさま》や、諸国のお大名方で、争って大弐様のお弟子になったちうことです。なんしろ大学者だから、諸子百家の学問から、医学に至るまで、学問という学問に通じておいでなすったが、ことに兵法軍学の方の大家でなあ、人の気づかない意見を述べたものだから、江戸の方のお役人から睨《にら》まれてい申した。ある時、本当にそういう御了見でもなかったでごいしょうが、兵法を講釈のついでに、江戸のお城を攻めるにはどうしたらいいか、どこからどう攻めれば落し易《やす》いとか、そういうことを例えに引いて話したのが悪かっただねえ、そればかりじゃねえ、諸国の地理のことも、裏から裏まで、ちゃんと頭の中にそらんじておいでなさるし、あの城には弓矢がどのくらいあって、鉄砲がどのくらいある、いざと言えば、何人の人が、いつどこへ集まる――ということまでちゃんと心得ておいでんさったのだから、将軍様も怖くなったのでごいしょう、こういう人物にもし勢《せい》がついて、誰か謀叛気《むほんぎ》のある大名でも後ろだてになった日には、由比の正雪の二の舞だ、というようなわけでごいしょう。人間も馬鹿じゃいけねえが、そうかといって、あんまりエラ過ぎると危ないでさあ。大弐様なんぞは人物があんまりエラ過ぎて、時勢の方が追いつき兼ねたです、つまり時勢よりも、人物の方がエラ過ぎたというわけで、とうとう首を斬られてしまいなさった。そのくらいだから、近年まで、誰もお墓に参詣するものなざあありゃしやせん、エライ人だということはわかっていても、うっかり参詣なんかしいしょうものなら、悪く睨まれてもつまりやせんからねえ――だが、時勢が、どうも、だんだん大弐様のおっしゃる通りになって行くようなあんばいで、近頃はああやって、徳大寺様のようなお身分の方までが、わざわざお墓詣りに来て下さる――この土地の村々でも、大弐様の書き残した本などを読むものが殖えてきましたよ」

         九十八

 神尾主膳は、根岸の控屋敷の居間で、顎《あご》をおさえながら、机によりかかって、二日酔いの面《かお》をうつらうつらとさせている。
 今日は、好きな字を書いてみる気もなく、例の筆のすさみの思い出日記の筆をとるのもものういと見えて、起きて面を洗ったばかりで、朝餉《あさげ》の膳にも向おうとしないで、こうしてぼんやりと、うつらうつらして机にもたれているところです。
 ぼんやりと、うつらうつらして、やや長いこと気抜けの体《てい》でありましたが、そのうちに、さっと二日酔いの面に、興奮の色がちらついたかと見ると、三つの眼が、くるくるっと炎のように舞い出してきました。
 神尾主膳には三つの眼があること――これは申すまでもなく、染井の化物屋敷にいた時分に、弁信法師のために授けられた刻印なのです。額の真中を、井戸のはね釣瓶《つるべ》で牡丹餅大《ぼたもちだい》にばっくりと食って取られたそのあとが、相当に癒着しているとはいえ、塗り隠すことも、埋め込むこともできない――親の産み成した両眼のほかに、縦に一つの眼が出来ている。
 これが出来て以来、人目にこの面をさらすことができない。いや、それ以前から人前では廃《すた》った面になって、これで内外共に、人外《にんがい》の極《きわ》めつきにされてしまった。
 この面を人に会わすことは避けているが、子供は正直だから言う、
「三《み》ツ目《め》錐《ぎり》の殿様」
 神尾主膳は興奮のうちにも、三ツ目錐を急所へキリキリと押揉むような、何かしらの痛快を感じたと見えて、額の三眼が、クルクルと炎のように舞い出したのです。
 こうなった時は、触るるものみな砕くよりほかはない。傍《かた》えにあればあるものを取って抑えて、むちゃくちゃにその興奮のるつぼ[#「るつぼ」に傍点]へ投げ込むよりほかはない。
 お絹という女がいれば、こういう興奮を、忽《たちま》ち取って抑えてぐんにゃりさせてしまう。三ツ目錐の炎を消すには、頽廃《たいはい》しかけたお絹という女の乳白色の手で抑
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