これから、お婆さんは徳大寺様と一緒に、甲府へ行くということになりました。
 与八としては、この竜王村への用事を兼ねてなのですから、ではこれでお暇《いとま》をしましょう――ということになって、お婆さんは与八に厚く礼を言った上に、
「与八さん、ちょっとこちらへいらっしゃい、このお方は、徳大寺様と申し上げて、畏《かしこ》くも天子様の御親類に当る身分の高いお方でいらっしゃいます――お目通りをしてお置きなさい」
と言って、徳大寺様へ向いては、
「何と珍しい心がけの、人相のよい若衆《わかいしゅ》ではございませんか、鳩ヶ谷の三志様にそっくりだと、わたしは見ているのでございます、お見知り置き下さいませよ」
と言って、二人を引合わせました。

         九十六

 かくて、徳大寺様、おつきの侍と、お婆さんとは、ここを立って甲府の方へ向けて、田圃道の間を歩み去りました。
 そのあとを見送りながら、焚火にあたって与八は、村人二人と話しています。村人二人から話しかけられて、与八がその相手になっているのであります。
「与八さん、どうしてあの女高山のお婆さんを知ってるでえ」
「わしゃ、前から知っているというわけじゃありません、今日、お婆さんが、お湯に入りに来て、それから知合いになりました」
「では、知らねえ人だね」
「はい、信州の飯田というところのお婆さんで、お富士さんを信仰なさるのだということだけは聞きましたが」
「それは、それに違えねえが、なかなかエライお婆さんだよ」
と言って、富作がこのお婆さんの身の上を、よく与八に話して聞かせました。
 松下千代女(すなわちお婆さんの本名)は信州飯田の池田町に住んでいる。鳩ヶ谷の三志様、すなわち富士講でいう小谷禄行《おたにろくぎょう》の教えを聞いてから、熱烈なる不二教の信者となり、既に四十年間、毎朝冷水を浴びて身を浄め、朝食のお菜《かず》としては素塩一|匙《さじ》に限り、祁寒暑雨《きかんしょう》を厭《いと》わず、この教のために働き、夫が歿してから後は――真一文字にこの教のために一身を捧げて東奔西走している。その間に京都へ上って皇居を拝し、御所御礼をして宝祚万歳《ほうそばんざい》を祈ること二十一回、富士のお山に登って、頂上に御来光を拝して、天下泰平を祈願すること八度――五畿東海東山、武総常野の間、やすみなく往来して同志を結びつけ、忠孝節義を説き、放蕩無頼の徒を諭《さと》しては正道に向わしめ、波風の立つ一家を見ては、その不和合を解き、家々の子弟や召使を懇々《こんこん》と教え導き、また、台所生活にまで入って、薪炭の節約を教えたり、諸国|遊説《ゆうぜい》の間に、各地の産業を視察して来て、農事の改良方法を伝えたりなどするものですから、「女高山」という異名を以て知られるようになっている。「女高山」というのは「女高山彦九郎」という意味の略称で、つまり、安政の勤王家高山彦九郎が単身で天下を往来したように、このお婆さんは、女の身で、単身諸国を往来して怖れない――その旅行ぶりが、彦九郎に似ている。また京都へ行って、御所御礼を怠らない勤王ぶりが、高山彦九郎にそっくりである。その、人を改過遷善に導く功徳と、利用厚生にまで人を益する働きは、むしろ本家の高山に過ぎたるものがある――
 右のお婆さんという人は、右のような女傑である――ということの説明を、富作さんの口から聞いて、与八がなるほどと感心をさせられました。
 してまた、一方の徳大寺様というのはいかに、これこそ、まことに貴い公家様《くげさま》でござって、女高山の婆さんは、エライといっても身分としては、信州飯田の一商家の女に過ぎないが、徳大寺様ときた日には、畏多《おそれおお》くも天子様の御親類筋で、身分の高いお公卿様でいらっしゃる。今は富士教に入って、教主の第九世をついでおいでになる。
 ということを富作さんが、与八と、もう一人のお百姓にくわしく語って聞かせたところから、与八は、では、この山県大弐様もやっぱり富士講の仲間でいらっしゃるのか、とたずねると、富作さんが首を烈しく左右に振り、
「違う、全く違う――山県大弐様という人はな……」

         九十七

 牛久保の富作さんは言いました、
「山県大弐というのは、富士講の信者じゃねえです、あれは武田信玄公の身内で、有名な山県三郎兵衛の子孫でごいす、先祖の山県三郎兵衛は武田方で聞えた勇士だけれど、山県大弐はずっと後《おく》れて世に出たもんだから、戦争もなし、勇武で手柄を現わしたわけじゃねえのです、学問の方で大した人物でごいした、勤王方でしてね。今時、勤王といえば、上方の方の人のようにばっかり受取られるけれど、山県大弐様なんぞこそ、その勤王の魁《さきがけ》ですよ、今の勤王なんざあ、みんな大弐公のお弟子みたようなものでごいす。誰
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