して熱心にお婆さんがたずねるくらいだから、お婆さんの血筋に近い人でもあるのだろう。
自分には何の関係もないのだから、どうも先走る気になれないのです。
しかし、なかなか大きな竹藪に入り込んだのですから、どこがどうか、入って見ていよいよわからなくなる。往手《ゆくて》は枯枝や、蜘蛛《くも》の巣、それに足許に竹の切口や、木の株や、凹みなどもあって、危ない。ほとんど昼なお暗い、八幡《やわた》知らずの藪のようになって、さしものお婆さんも少しひるんでいる。その時に与八がさきへ出て、
「お婆さん、この竹藪を突切って、一度むこうの竜王の土堤へ出て見ようじゃありませんか、土堤へ出て向うで聞いてみたら、知っている人があるかもしれませんよ」
「そうしましょうかね」
お婆さんも少々|我《が》を折って、二人は一応その竹藪を突切って、あちらの土堤へ出ようということになりました。
しかし、土堤へ出るつもりで竹藪を突切ってみたが、意外にも土堤へは出ないで、グッと田圃の眺望の開けたところへ出てしまったが、その途端に、
「あっ!」
二人の目を射たものは、真上に仰ぐ富士の高嶺《たかね》の姿でありました。雪を被《かぶ》って、不意に前面から圧倒的に、しかも温顔をもって現われた富士の姿を見ると、お婆さんは真先にへたへたとそこに跪《ひざまず》いて、伏し拝んでしまいました。与八は土下座こそしなかったが、思わず両手を胸に合わせ拝む気になりました。
甲斐の国にいて富士を眺めることは、座敷にいて床の間の掛物を見るのと同じようなものですが、大竹藪を突抜けて来て、思いがけない時にその姿を前面から圧倒的に仰がせられたために、二人が打たれてしまったのでしょう。
お婆さんが山岳の感激から醒《さ》めて立ち上った時に、程近い藪の中から、真白い煙が起り、そこで人声がしましたものですから、とりあえずそちらの方へ行ってみることにしながら、お婆さんは、富士の姿を振仰いでは拝み、振仰いでは拝みして行くうちに、与八は早くもその白い煙の起ったところと、人の声のしたところへ行き着いて見ると、そこには数人の人があって、ていねいにお墓の前を掃除をし、その指図しているところの、極めて人品のよろしい老人が一人立っている。
「あれが大弐様《だいにさま》のお墓だよ」
「そうでしたかね」
「徳大寺様も来ていらっしゃる」
九十五
富士を拝み拝み、たどり着いたお婆さんは、この人品のよい老人を見ると、恭《うやうや》しく頭を下げ、
「これはこれは徳大寺様――」
徳大寺様と言われた極めて人品のよい老人は、頭に宗匠頭巾《そうしょうずきん》のようなものをいただき、身には十徳《じっとく》を着ていましたが、侍が一人ついて、村人らしいのを二人ばかり連れて来て、お墓の掃除をさせている。
「これは女高山のお婆さん、待兼ねておりました」
と、徳大寺様がお婆さんに気軽く応対をしました。
「途中、道よりをしておりましてね、遅くなりまして相済みません、ここがそのだいに[#「だいに」に傍点]様のお墓所でございますか」
とお婆さんが、遅刻のお詫《わ》びをしながら尋ねると、人品の極めてよい老人が頷《うなず》いて、
「ああ、ここが山県大弐の墓なのだ、この通り荒れ果てて、見る影もなくなっているから、いま掃除をしてもらっているところだよ」
「それはそれは、ではひとつ、御回向《ごえこう》を願いましょうか」
掃除もあらかた済んだ時分に、徳大寺様が香花を手向《たむ》けると、お婆さんが水をそそいで、懇《ねんご》ろにそのお墓をとぶらいましたから、続いて、徳大寺様附きのお侍と、与八と、それから掃除に来た二人の百姓たちとが、手を合わせました。
「与八さん、お前、どこへお行きなさる」
礼拝が済んでから、与八に言葉をかけたのは、お墓の掃除に頼まれて来た牛久保の富作というお百姓でした。
与八も見知り越しであり、その子供を世話してやっている。そこで答えました、
「このお婆さんをお送り申しながら、ちょっと竜王まで用足しに参りました」
「そうですか、どうもいつも餓鬼共がお世話にばっかりなりまして」
「どういたしまして」
「それにまた、この節はお湯が開けて、与八さんもいよいよ忙しいでしょうね、功徳《くどく》になっていいことですよ、人助けになりますよ」
「はいはい」
「大旦那様は旅においでになったそうですねえ」
「ええ」
「いつごろ、お帰りになりやすか」
「近いうちにお帰りになるでしょうが、たまのお出先のことだから、また、何か別な御用向が起るかも知れましねえ」
「与八さんが来てから、あのお屋敷へ光がさしたと、みんなが言ってますよ」
「どういたしまして」
こんな挨拶を交している間に、徳大寺様はじめ、お婆さん、お侍、みんなお墓に対して回向礼拝を終り、さて
前へ
次へ
全138ページ中66ページ目
小説の先頭へ
文字数選び直し
中里 介山 の一覧に戻る
作家の選択に戻る
◆作家・作品検索◆
トップページ
登録
ご利用方法
ログイン
携帯用掲示板レンタル
携帯キャッシング