それで、実はわしも、お留守居の方を番頭さんにお任せ申して、胆吹山へ行ってみようかと思っているところです。そうしたらその途中、お婆さんのところへおたずね致しましょう」

         九十三

 ややあって、お婆さんは急に思い出したように、
「ああ、それそれ、わたしは、すっかり忘れていた、今日は、だいに[#「だいに」に傍点]様のお墓参りをする約束であったのに」
と言って、改まって与八に問いかけたのは、
「若衆《わかいしゅ》さん、お前さん、済みませんが、ちょっと、だいに[#「だいに」に傍点]様のお墓まで案内をして下さい、頼みます」
「だいに[#「だいに」に傍点]様とおっしゃるのは?」
「だいに[#「だいに」に傍点]様――有名なお方ですよ、ここから遠くないところにお墓があるはずです、お前さん、そこへわたしをちょっと案内して下さい」
「だいに[#「だいに」に傍点]様――わしゃ、そういうお方を存じませんが」
 与八は、真に当惑面で答えました。お婆さんから突然に、だいに[#「だいに」に傍点]様、だいに[#「だいに」に傍点]様と問われても、いっこう自分には心当りがないので、お婆さんだけが、ひとりのみ込みであるとは思うが、しかし、他国から来た人がこうして、だいに[#「だいに」に傍点]様、だいに[#「だいに」に傍点]様と無造作《むぞうさ》に問いかけるところを以て見れば、あまねく世間が知っている名前に相違ない。ところが与八は一向それを知らない。
 人が知っていて、与八が知らないことは、だいに[#「だいに」に傍点]様に限ったことはない。現に木喰五行上人《もくじきごぎょうしょうにん》のことなども、与八はいっこう知らない間に人が知らせてくれた。自分は武蔵の国から出て来て、いま隣国の甲斐の国にいることだけは知っている。甲斐の国へ来て知っている人といえば、自分の身辺に触れて来た人のほかには、古いところで武田信玄公――そのほかには、ちょっと与八の頭では思い出せない。思い出せば水晶ぐらいのものです。
 そこで、だいに[#「だいに」に傍点]様のお墓といって、お婆さんから先刻御承知のもののように尋ねられて、つかえてしまったのは是非もないので、まことに済まない面をして与八が次の如く申しわけをしました。
「わしは、この土地の生れでねえんでございますから、何も存じません、親類身よりもこの土地にはねえんですからねえ」
「いや、お前さんの親類とは言いません、だいに[#「だいに」に傍点]様をお前さんは御存じないかね、困ったものだ、では誰ぞ、その辺の人に聞いてみましょう」
 田の畔《あぜ》を通る村人二三人を呼び止めて、お婆さんが同じように問いかけました。
「だいに[#「だいに」に傍点]様のお墓は、どちらですね」
 これに対する返答は、ほぼ与八同様のものでありました。
 いずれもお婆さんがひとり合点で、だいに[#「だいに」に傍点]様、だいに[#「だいに」に傍点]様と呼びかけるのに、問われた方は怪訝《けげん》な面をして、ぐっと返答にさし詰ってしまうのです。与八は他国者だから、それを知らないにしても、正銘の土地の者が、二人、三人、みんな当惑して、きょとんとした眼でお婆さんを見る。
 ちょうど、四人目に田を起している老人をつかまえた時に、その人だけがやっと眉を開いて、
「ああ、だいに[#「だいに」に傍点]様、山県大弐様《やまがただいにさま》のお墓でごいすかい。そりゃ近いところでごいすよ、あの大きな竹藪《たけやぶ》を目あてにおいでなすって、あの藪の中にごいすよ、ちょっとわかりますめえが、崩れた塔婆があるにはありやすよ――まあ、あのでかい藪の中を探してごらんなさって」
と教えてくれたので、お婆さんは喜んでその教えられた方の大竹欒《だいちくらん》をめざして進んで行くから、与八もそれに従わないわけにはゆきません。

         九十四

 お婆さんが、ひとり呑込みで、だいに[#「だいに」に傍点]様、だいに[#「だいに」に傍点]様と口走っていたその人の本名は、「山県大弐」という名前であることだけはわかりました。だいに[#「だいに」に傍点]様、だいに[#「だいに」に傍点]様と言わないで、本名の山県大弐を呼びさえすれば、土地の物識《ものし》りは知っているということもわかりました。
 田圃《たんぼ》の間をずんずんと進んで行くと、ほどなくその大竹藪まで来ました。別に囲いもないが、さりとて、どこに道がついているのかわからない。それをお婆さんは見つくろって、怖れ気もなく中へ入って行くのです。与八も何が何だかわからないながら、つい、お婆さんに露払いをさせてしまって、若い自分がそれに追従しなければならなくなったのは、お婆さんその人は、たずねる墓の主をよく心得ているが、自分はいっこう知らない。これほどに
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