熱狂しきっている子供の眼中には、もはや悪女塚の庭もなければ、与八の教場もない。
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ダアサイナ
ダアサイナ
ドウロクジンヘ
ダアサイナ
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 押し合い、へし合いしている、その前後左右に出没して、また別な頑童共が、割竹を持って地面《じべた》を打叩きながら、噺し立てている。それが風俗年中行事であり、子供らが習慣によって無邪気に熱狂しているのはいいとしても、心ある人に、目ざわりになるのは、その真中に押立てられたあれです。誰が、どう見ても、男根の形としか見えない大物を、紅がらでこてこてと真赤に塗り立て、それを真中に擁して一大隊の子供が、火水《ひみず》になれと揉み立てているのだから、目に立てないわけにはいかない。すべて、今までの接待に感心ずくめで通して来たお婆さんも、それを見ないわけにはいかない。与八もまたそれを見せないわけにはいかない。
 ブチこわしだ! と、与八でなければ面《かお》の色を変えたでしょう。今まで子供たちの躾《しつけ》のいいことにすっかり感心させて置いたのが、これを見られてはブチ壊しになってしまう。せっかくのお客様の前へ、こういうものを担ぎ込まれたのでは、主人側としては、面から火が出るような思いをしなければならない。
 それを与八は、別段、赤い面もせずに、へへらへへらと笑って見ていました。お婆さんは肝《きも》を潰《つぶ》しかけた形で、眼を円くしている。子供の一大隊は、
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ダアサイナ
ダアサイナ
ドウロクジンヘ
ダアサイナ
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 ついに与八の教場の眼の前まで来て、割竹を持ったものは、早くも土間の方へなだれ込み、ますます馬力をかけて、
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ダアサイナ
ダアサイナ
ドウロクジンヘ
ダアサイナ
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         九十二

 この分でいると、教場内へ乱入し兼ねまじき勢いに見えましたけれど、与八は泰然自若として驚きませんでした。
 お婆さんも一時|呆《あき》れ返ったが、やがて穏かに自分の巾着《きんちゃく》を取り出して、
「さあ、お婆さんがどうろくさまへ差上げるよ」
と言って、小銭をバラ蒔《ま》いてやると、子供たちはそれを拾い取ると共に、潮の引くように引きあげて、揉み合い、へし合いながら、庭を下って下へおりて行くのです。
 これは、ホンのその場限りの景物でありました。
 それから右のお婆さんは、与八にお礼を言って、自分は信州飯田の者である、右のような次第でお富士さんへ参詣して来たが、これから故郷の信州飯田へ帰る、お前さんもどうか、そのうち都合して、ぜひ飯田まで遊びに来て下さい、飯田へ来て松下のお千代婆さんと言えば、直ぐわかる。
 待っているから、ぜひ都合して遊びにおいでなさい――と懇《ねんごろ》にすすめました。
 そこで与八も、どのみち末始終は旅に出づべき運命の身だと心得ているから、いつかお婆さんの故郷、信濃の国の飯田へ行ってみようという気にだけはなりました。
 いざ出立という時に、与八は、
「わしも今日は竜王まで、ちょっくら用事があるから、一緒にお送り申しましょう」
 かくて与八は、またも郁太郎を背負い、お婆さんと道づれになって、ある程度までお婆さんを見送りながら、自分は自分の用足しをして帰ろうという門出です。
 お婆さんは、自分のかぶっていた菅笠《すげがさ》を、与八のためにと言って残した。その笠には、富士のお山のおしるしもあれば、お婆さんの故郷、信州飯田――池田町――松下千代と書いてある。
 それをお婆さんの記念《かたみ》として受け納めた与八は、別に新しい笠を換えてお婆さんに贈り、そうして二人は、この教場を立ち出でました。天気が良くて、釜無川の沿岸から八ヶ岳の連峰が行手に聳《そび》えている。与八は歩きながら、お千代婆さんに向って述懐を試みる。
「うちの大旦那様が、今、上方《かみがた》へ向けて旅をしておいでなさる、上方見物という名代《なだい》だが、本当はたった一人の娘さんのことが心配になるのでしょう。その娘さんというのは、きかない気のお嬢様で、お父さんの大旦那ももてあまして、お嬢さまのなさるように好き自由にさせてお置きなさる。こんど近江の国の胆吹山《いぶきやま》というところの下へ、そのお嬢様が広大な地面を自分でお買いなすってね、そこへ一つの国をこしらえるんだそうです、何をしでかしなさるのかわからない。こちらの大旦那という方も、実はお気の毒な方なので、この通り甲州第一等の身上でおあんなさるのに、御家族運が悪くてね、たったひとり残ったお嬢様がその通りなんですから、お大抵の心配事ではございません。上方へおいでになっても、またそのお出先で、お嬢様と衝突がなければいいと、みんなそれを心配しているんでござんすよ。
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