始末が大変である――小指一本だけなるが故に、あの盗人《ぬすっと》めも自分で自分の身体を始末して行ってしまったし、あとの掃除も人手を借らずに、こうしてあっさりとやって行ける。それを寧《むし》ろ勿怪《もっけ》の幸いとして、畳の上から次の部屋に至るまで、血の滴りを拭うことの労を厭《いと》いませんでした。
 件《くだん》の血の滴りといっても、あの屏風の下から、この女王の部屋を横断して、次の間の或る程度で止まってしまっているものですから、極めて容易《たやす》い掃除で済みました。
 それが済むとお銀様は、ならず者が置き放して行った一件の脇差を静かに取り上げて、机の前へ端坐してながめました。まさしく自分の父の愛用の道中差に相違ない。物を盗《と》りに来て物を置いて行った盗賊の間抜けぶりも笑止といえば笑止だが、あの図々しさは法外である。時が時、場合が場合でなければ、わたしたちはどうなったかわからない。
 それに、もう一つ笑止千万なのは、今のあのならず者が、わたしの父の伊太夫が旅をしてこちらへ出て来ていること、しかも、自分と眼と鼻の間の大津に宿を取っているということまで、嘘かまことか喋《しゃべ》って行ってしまったのが、自分のためには、わざわざ飛脚の役をつとめてくれたようなものになっている。
 それにしても、父が何のために、どうして旅立ちをする気になったのだろう。そんなことを考えつつ、行燈《あんどん》を朧《おぼ》ろに薄めて、やがて夜具をかついであけ方を深き眠りに落ちて行ったようですが――次の間ではもうその以前に夢を結んでいるらしい。

         八十三

 伊太夫が旅立ちをしたあとの留守居を引受けた与八の、また一つの社会事業としての、浴場公開のことがありました。
 古来、伊太夫の屋敷のうちには有名なる温泉がありました。温泉といっても、そのままで入湯のできるまでに熱い湯ではありませんでした。温度四十五度内外のものですから、いったん沸かして入らなければならないのですが、それでも効目《ききめ》は大したものでありました。少なくとも大したものとして遠近《おちこち》に伝えられて、以前は、ほとんど公開の設備をしていたのですが、伊太夫の後妻を迎える前後になって、公開をやめて自家用だけにしておりましたのが、なお特に希望して来るものが多かったのですが、一人に許すと百人に許さなければならぬという道理で、ことごとく謝絶してしまっておりました。
 それを、近ごろになって、与八が伊太夫に頼んで再び公開のことを申し出でたのを、今度は伊太夫がすんなりと承知してくれました。その上に、設備万端の費用もおかまいなしというようなわけで、与八の前へ棟梁《とうりょう》を呼んで、自分から言いつけて工事をやらせるという徹底ぶりにまでなったのですから、与八の本望は申すまでもなく、大工さんたちも、
「わたしたちもこれで願いがかないました、この仕事は人助けのためだから」
と言って、奉仕につとめてくれたことですから、日ならず立派な公開浴場が出来上りました。
 遠近、聞き伝えて欣《よろこ》ぶことは容易ではありません。病人たちは、その噂だけで再生の思いをした者もありました。
 木の香新しい浴室の中央へ地蔵様を据えつけると、与八はそこで風呂番をつとめました。そうして湯加減を見るために、いつも最初の朝湯は与八自身がつとめました――というのは、一つはこのお湯の効目を、とかく病身がちな郁太郎というものに蒙《こうむ》らせてやりたいということも、最初の希望の一つであったのです。
 そこで風呂が沸くと、与八は真先にお毒見をするつもりで、郁太郎を抱いて新湯を試みました。
 ある日、与八が余念なく入湯していると、その姿を立って眺めているお婆さんが一人ありました。このお婆さんは、きりりと身ごしらえをして、かなり道中の雨露を凌《しの》いで来たと見られる手甲脚絆《てっこうきゃはん》をつけて、笈摺《おいずる》のようなちゃんちゃんこを着て、そうして、草鞋《わらじ》がけで竹の杖をつき立てて、番台の下まで進んで来たのですが、どうしたものか、そこですっかり与八をながめ込んでしまったのです。
 与八は、そんなことにはいっこう頓着なしに、しきりに郁太郎を手拭で撫でさすっておりましたが、やがて、眼を上げて見ると、番台の下に矍鑠《かくしゃく》たるお婆さんが一人、突立ってこちらを見ているのに気がついて、急に大きな頭を一つ、がくりと下げ、
「お早うございます」
と、例によって、馬鹿ていねいに挨拶しますと、右のお婆さんが、
「お前さんは、いい人相だねえ」
 挨拶を返すことを忘れて、惚々《ほれぼれ》とこう言って感歎の声を放ちます。
「へ、へ」
 与八としては気のいいえがおをもって、お婆さんの感歎に答えるだけでした。

         八十四


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