りしましたけれども、暫くすると、ひとりまたいい機嫌になって笑い出しました。大空にちんくるちんくるとまたたく星の光を見て――人間が笑い得るには、幼な児といえども相当の余裕を持っていなければ笑えない。相当の余裕とは要するに衣食の余裕です。
 今、ここに棄てられた子は、衣に於て充分の凌《しの》ぎをもっている。時季によっては、いかに衣服が足りても、深夜こうして夜風に曝されることに堪え得るはずはないのですが、今は何といってもまだ秋です、衣は寒を防ぐに足り、食は――棄てられる前に、たっぷりと因果が含ませてあるに相違ない上に、傍にまた徳利へ乳首をつけて、その時分はミルクはなかったとして、摺粉《すりこ》か、上※[#「米+參」、第3水準1−89−88]粉《じょうしんこ》か、そんなものを甘くして、優に一昼夜の吸引に堪え得るようにしてある。だからこの棄子《すてご》は衣食が充分に足りて、そうして笑うの余裕を得ている。
 だが、こういう人生のきわどい笑いがいつまで続く?
 棄てられた子の泣くのは悲惨だけれども、笑うのはなお一層の悲惨です。慈善の人があって、手に取上げるまで泣かして置くのはよろしいとして、それまで笑わせて置くことは、むしろ堪え難いことです。
 但し一人の子供が泣こうとも、笑おうとも、天地人間《てんちじんかん》の静かなことは一層静かで、これも豊太閤の豪邁《ごうまい》なる規模をそのまま残すところの、桁行《けたゆき》十七間、梁行《はりゆき》十四間半の大本堂の屋の棟が、三寸低く沈む時分になると、鼓楼の下から、白衣のものがちょろちょろと走り出して来ました。
 さいぜん台所門で見たのは、暗夜に黒衣の覆面――これは夜目にもしるき白衣の、しかも以前の姿よりもいくぶん背が低い。さてはお花さん狐がまた変装の趣向をかえたかな。女です――以前のは落し差しでしたが、今度のはまさしく女姿です。してみればやはり、霊怪でも、変化でもない。いったん捨てた子の笑うのに堪えられなくなって、母なる人がまた抱き戻しに来たのだ、人の母としてまさにそうなければならぬ。

         五十六

 子を棄てる藪《やぶ》はあるけれども、身を捨てる藪はないと見たのは、母と、子と、聖霊との、三位一体《さんみいったい》を知らない者のいうこと。
 俗説にも、子を捨てた親は、必ずその子が、たれ人かの手によって完全に拾い上げられるまで物蔭に隠れていて、見届けて帰るのを習いとする、とある。
 ここ、大通寺の玄関の松の下に、一旦わが子を捨ててみはしたけれども、時あって誰も拾いに来る人がない。
 母なる人は、鼓楼の蔭あたりで、一刻も早く温かなる手の拾い主を期待していたのだが、容易に人の視聴を聳《そばだ》てないことほど、この棄てられた子がおとなしい子でありました。
 むしろ、火のつくほど泣き叫んでくれたならば――遥《はる》か彼方《かなた》を通る夜廻りの者か、寺の庫裡《くり》の料理番か何人《なんぴと》か、夢を醒《さま》す人もあろうのに、いい機嫌で笑い出されてしまったのでは、とりつく島がない。
 もう、たまりかねて、母親が自分の手で回収に出かけたものです。ただ、その母親が子を捨てるほどの母の姿としてはいささか異様に見えないではありません。白衣ははじめからわかっているが、近づくに従って熟視すると、髪はうしろへ下げ髪に、その上へ鉄輪《かなわ》を立てて、三本の蝋燭《ろうそく》が燃えている。足は跣足《はだし》です。それから首に鏡のようなものをかけている。
 右の女が、ちょこちょこと鼓楼の下から小走りして、玄関の松の下まで来ましたが、思い余って、いきなり、わが子を入れた籠に飛びつくかと思うと、存外、冷静でありました。
 その冷静ぶりは、むしろ、捨てたわが子の籠を目的としないで、そそり立つ松の大木の幹へでも抱きついてみたいというような気分で走りかかったことも、不思議の一つでしたが、籠の直ぐ一歩前、ちょうど松の大木の幹の下へ来てみると、そこで、いきなりわが子へ飛びつきもしないし、頬ずりもしないで、何か事の不思議そうに、突立ったままで、ずっと闇を透かして、この幼な児の人生の笑いを見つめていました。
 こんな緩慢な挙動は、断じて人の親の挙動ではない。
 第三者が偶然に、何か驚訝《きょうが》すべき事件を路傍に認めて、ふと足を止めた挙動に過ぎない。わざと芝居をして見せるのでない限り、母たるものがこんな思わせぶりを、この際わが子に向って為すべきはずがない。
 そんなことには頓着なく、この子はほほ笑みをつづけておりました。
 他目《よそめ》には、母親でなければならぬと想像されるところの女の人を傍らに置きながら、母よと呼ぶのでもなければ、乳をとせがむのでもない。相変らず天空の爛々《らんらん》たる星を仰いで、ひとり笑いに笑っている。
 
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