咽《むせ》び泣く音が起りました。
仮りにも玄関といえば表の方でなければならないし、昔は大手門であっても、台所門と名を変えた以上は、どうしても裏手の方でなければならない。
そこで、お花さん狐が、覆面の落し差しに化けて、彷徨《さまよ》い出した方面と、今、子供の咽び泣く音の起った方面とには、裏と表の相違がなければなりません。
裏の覆面は推理上異様なものでしたけれども、表の「玄関の松」の下の子供の泣き声はさのみ変化《へんげ》の声とは思われません。時が時、ところがところで、子供だけがひとり泣いているのだから、それは不自然は不自然に相違ないけれども、こういう不自然は人間社会に於ては、いつの世にも絶えない不自然で、深夜、松の木の下の寒空に、乳呑児ひとりだけを泣かして置くという親には、親としての因縁がなければならぬ。つまり、これは棄児《すてご》なのでした。
すでに、どのくらいの時間の前であったか、この松の木の下へ持って来て、産み落して四月ばかりになる人の子を一人持って来て、捨てて置いたものがありました。
親というものは、裸で産み落したにしても、その子を捨てるのに裸ではすてない。時として身分不相応な装飾を施し、できるだけの保護を加えた上で、捨てるのを習いとする。
今、捨てられた子を見ると、相当の籠《かご》の中に入れて、その周囲《まわり》をまだ新しい、特にこの子を捨てなければならないために手製したと思われる小さな蒲団《ふとん》をしいて、その上に、縫目も縞目も新しかるべき仕立卸しの衣服をもって固く夜風をさえぎっている。なおそのほかに、籠の左右にこぼれたものを見ると、でんでん太鼓だの、風車だの、ピーピーだの、おしゃぶりだの、そりいうものが積まれているのみか、徳利の頭へ管《くだ》をつけて、その管の一端が、子供の口許にまで導かれて結えられている。
つまり、こうして棄てて置いて、棄てた主は早くも姿をくらまし、棄てられた子は、その当座だけは、徳利の乳の甘さに我を忘れてほほ笑んでいたと見えたのが、今それに飽きてみると、はじめてわが身の孤独を感じ、親を呼んでみたが、いつものように温かい手を与えてくれないところから、急に咽《むせ》び泣きを立てたものらしい。
しかし、しくしくと泣いたが、暫くするとまた黙ってしまいました。この子は性質のおとなしい子であるけれども、やがてまた、わっ[#「わっ」に傍点]と泣き立てました。それから暫く声を引いて泣きつづけたのですが、いつかまたまた、おとなしくなって泣きやみました。泣きやんだかと思うと、また糸を引くように咽び出しました。しかし、これがかえって、聞く人の腸《はらわた》を断つものがありました。聞く人がないからいいけれど――いいか悪いか知れないけれど、こういう場合に於ては、火のように泣き立てられることの方が、かえってこれほどにいじ[#「いじ」に傍点]らしくない。
泣きやみ、泣きつづけて、そう長くは繰返されないで、やがて連続的の泣き声となりました。天地の間《かん》に親を求むる声です。それが人の腸を掻《か》きむしらなければ、世に人の腸を掻きむしる声はない。
かくて、「玄関の松」の大木の下は、棄てられた児の天地に向って号泣の場所となりました。
五十五
一口に、ここで「玄関の松」と言ってしまっているけれども、この大通寺の玄関の松もまた、歴史ある玄関の松で、普通の寺院の庫裡《くり》の前の車廻しや風よけと見ては違う。これも一世の英雄、羽柴秀吉の長浜城の中にあって、秀吉がこの松の木に鎧《よろい》をかけたというところから「鎧かけの松」と名をつけられていたし、厳如上人《げんにょしょうにん》はまたこの松をなつかしがって、「昔の友」と呼んだくらいですから、なみなみならぬ由緒《ゆいしょ》を持っている。前の大手門を、台所門として移したと同時に、この松もここへ移し植えられている。高さ五丈五寸、枝張五十三間を数えられる玄関の松なのです。
大通寺の境内は広く、規模は大きく、その中に本堂があり、表門があり、裏門があり、庫裡があり、書院があり、経蔵があり、鐘楼があり、鼓楼があり、盥漱所《かんそうじょ》があり、香部屋《こうべや》があり、蘭亭があり、枕流亭《ちんりゅうてい》があり、新御殿があり、土蔵があり、示談講があり、総会所があり、女人講があり、茶所があり、白砂会所《しらすなかいしょ》、二十八日講、因講《ちなみこう》までを数えると、ちょっと一息には言えない建物があるのですから、その一角で、この深夜、ひとり捨てられた人の子が、全力を尽して号泣していたところで、いずれの隅まで反応して人の眠りを驚かすか、甚《はなは》だ怪しいものであります。ことに、この捨てられた子が、因果におとなしい子でありまして、一旦は咽び泣いたり、また号泣した
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