の宿のお前のところまで駈けつけよう」
「じゃ、そうしておくれ」
「合点だ」
「寒い!」
お蘭どのが、わざとらしく肩をすぼめて、暁の風が身に沁《し》みるという風情をして見せると、
「寒かあ寝なな」
一番鶏か、二番鶏の音が、関のこなたで声高く聞える。
「お先へ御免よ」
お蘭どのが、みえ[#「みえ」に傍点]もたしなみもなく、寝床の中にもぐり込んで、そこで頭を出して、プカプカと煙草を喫《の》み出したが、がんりき[#「がんりき」に傍点]の野郎は、寝たいとも、休みたいとも言わず、
「ああああ、つまらねえ、誰かのように人に働かせて、たんまりと据膳を食って、あったか[#「あったか」に傍点]く寝ている身分になりてえが、持って生れた貧乏ひまなしで、そうもいかねえ」
「勝手におしよ、酔興のくせに」
お蘭どのは猿臂《えんぴ》をのばして、煙管《きせる》の熱い雁首を、いきなり百の野郎の頬っぺたに押しつけたものだから、百の野郎が、
「あ、つ、つ、つ」
と言って横っ飛びに飛び上りました。
五十三
同じ胆吹山麓圏内の西南の麓、琵琶の湖北の長浜の町は、今晩は甚《はなは》だ静かでありました。
宵に新月がちらと姿を見せたままですから、今晩は闇の夜です。闇の夜といっても、真の闇の夜ではなく、星は相当に数えられるのです。
その星の地位からして見ると、アルゴルの星の光が最も低く沈む時分、長浜の無礙智山《むげちざん》大通寺の寺の中へ、「お花さん狐」が一つ化けて現われました。
どういうふうに「お花さん狐」が化けて現われて来たかというと、黒い覆面のいでたちで、痩《や》せた身体に、二本の刀を落し差しといったように腰にあしらい、そうして、物に病みつきでもしたもののように、ふらりふらりと台所門の方から現われて来たのです。
長浜別院の「お花さん狐」といえば、知る人はよく知っている。ほとんど全国的に知る人と知らない人がある。この大通寺がその昔、羽柴秀吉の城地であった時分から、お花さん狐は今日でもまだこの地に棲《す》んでいると堅く信ぜられているのです。秀吉の長浜城の建築物をこの大通寺へ移したと同時に、お花さん狐もここへ移り棲んでいるものと信ぜられている。そうして、寺の栄枯盛衰に関する場合には、霊狐《れいこ》の本能を現わして寺を守ることになっている。狐のことですから、化けるにしても、たいてい美人に化けてその神通力を発揮することになっていて、そこで「お花さん狐」の名が中外に響いているのだが、変化自在《へんげじざい》の身であってみると、必ずしも美人だけにしか化けられないと固定したものではない。
機に臨み変に応じてさまざまの異装を現じて、寺法守護の権現の役をつとめているということだから、今晩は特に好みを変えて、かく覆面姿の、浪人者の、落し差しの体《てい》となって、深夜のそぞろ歩きに、天井裏の鬱《うつ》を慰めに出たのかも知れない。
そこで、この化け物が、台所門の方からふらりと境内の闇に現われました。
ここに台所門と言ってしまえば、お花さん狐が、野良狐《のらぎつね》のように餓えかつえ[#「かつえ」に傍点]てお料理場の油揚の切れっぱしをでも漁《あさ》りに来たかのように聞えて、甚《はなは》だ体裁が悪いのですが、本来、大通寺の台所門というのは、さように口腹のための出納所《すいとうじょ》という意味ではなく、これぞまだ昔の豊臣太閤が、はじめて筑前守に封ぜられた当時に建設したここ長浜の城の大手門でありました。その証拠には、今でも門扉の金具の裏に、「天正十六年戊子八月十六日」と銘が打ってあり、なおまたその扉には矢の根の痕《あと》までついている。しかく英雄によって名残《なご》りを残す一城の大手門なのであって、「お花さん狐」にしてからが、その英雄時代にすでにその同じ城内に巣をくって、長生今日に至るほどの霊狐なのですから、次第によっては歴代の御連枝《ごれんし》以上に信仰もされている。御奉納も豊かである。何を苦しんで深夜を選んで台所口へ残肴《ざんこう》を漁りに出かける必要があろう。
そこで今晩は、特に趣向を変えて、当時はやりの青白い浪人姿となって、ふらりと夜中の散歩を試みたと見れば見られる。
左様に覆面こそしているが、忍びのいでたちはしていないし、忍びの呼吸にもなっていない。この通りふらりふらりと着流しで歩いてはとまり、とまっては歩いているのだから、兇悪なる屋尻切《やじりきり》の目的を以て外間からこのところへ狙《ねら》い寄った白徒《しれもの》でないことは確かです。
大通寺の境内は広いから、夜更けてのお花さん狐の散歩区域に不足はない。
五十四
こういった化け物が、長浜別院の境内にそぞろ歩きをはじめた時分――これも有名な「玄関の松」の木の下方で、子供の
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