二つながら何という水臭い親子か――血を引いたものならば、髑髏《どくろ》へでも血が染まるというのに、ここで当面相対しながら、親であると見るべき女は、路傍の人の如く闇中にわが子を見、子であると見るべき一方は、それを見向きもせずに天空に向って笑っている。
 母としては奇怪千万の母ではないか、子としても無情冷酷なる子ではないか。
 しかも、奇怪と、無情とは、これに留まりませんでした。
 星を見て、冷やかに笑うみどり児をよそにして、この母親と見ゆる奇怪なる女性は、他の物をがっちり[#「がっちり」に傍点]と抱き締めました。

         五十七

 右の奇怪な女人が抱き締めた他のものというのは、おさな児の揺籠《ゆりかご》ではなくて、玄関の松の大木でありました。
 その大木にしがみついたかと見ると、なお驚くべきことには、女だてらに力を極めて、その幹から枝へ上り出したことです。
 してみると、この女が、人の親でなかったことは明らかであります。人の親でないとすれば、狂人というよりほかはないでしょう。でなければ、例によって、お花さん狐の化けっぷりの一つかも知れないが、それにしてもバツが違い過ぎる。
 狐もお花さん程度になると、こんなにまで狂人的にあがいて興をやる必要はないに相違ない。してみれば、やっぱり人間だ、人間の狂えるものの仕業《しわざ》だ。
 この狂える白衣の女人は、昔の「友の松」の大木の幹にかじりつきながら、ついに、ほとんど頂上に近いところまで上りつめてしまうと、そこで、とある一つの枝に腰を卸して、身体《からだ》の調子を取りながら、手を懐中へさし入れると、取り出したところのものは別のものではない、身の丈五寸ほどの、藁《わら》でこしらえた人間の形であります。
 ははあ、これで万事が読めた。この女が温かい心を持った人の親でないことは勿論だが、また必ずしも狂人ではないことも明らかです。挙動そのものから言えば、まさに狂人と銘を打ってもよろしいが、単に夜中に巷《ちまた》を走り、木に登るからといって、それが全く狂人だと断定してしまうのは少し早計です。烈しく人を憎み呪うがために、行動の一部分だけが狂人化したのみで、身心そのものが全部狂うているとは誰しも言いきれないのは、こういう行動をとる女が――いつの世にも、相当に身分もあり、賢明でもありながら、ついにこの種の行動から脱しきれない淑女が絶えないことです。
 怖るべきは、憎悪《ぞうお》と嫉妬《しっと》です。人は、ことに婦人は、これがために生き、これがために死ぬものが多い。今、人形を取り出した女人の眼は爛々と燃えておりました。憎悪と、嫉妬と、呪詛《じゅそ》の悪念が集中して象徴化した藁人形を取り出して、松の幹の一面に押しつけると共に、左の手でそれを抑え、右の手をまたも懐中へ入れて、新たに取り出したのは一梃の金槌《かなづち》であります。金槌を取り出す前に、すでに五寸釘が手の中にあったと見えて、それを藁人形の首のところへあてがうと、
「カツン」
 憎悪に燃えた眼と、嫉妬に凝《こ》った繊細《かぼそ》い腕とで、幹もとおれと打込んだ藁人形の首から、ダラダラと血が流れ出しました。
 その途端に、何におびえたか木の下で、にわかに幼な児が声を立てて泣き出しました。今まで星を眺めて笑っていた子が――
 そんなことは、木の上の女の耳へは入らない。釘の中のすぐれて大きなやつを咽喉元に打込んで、その次に、右の腕、左の腕、胴――甚《はなはだ》しいのは足の両股の間をめがけて、上からのしかかるように、金槌の頭も、柄も、砕けよ飛べよと打込んだ後、燃え立ちきった女の眼の中に、見るも小気味よい一点の冷笑が浮びました。
 熱狂を以て打込んだ釘のあとを、冷笑を以て見ていると、人形の四肢五体から沸々《ふつふつ》と血が吹き出して来る。藁の人形そのものが、のたうち廻って苦しむ。
 血も出ていない、人形も苦しんではいないらしいが、女の眼にはそう見えるらしい。木の上で高らかに笑いました。
 女が木の上で笑うと、下ではおさな児が、腸を引裂くように泣いている。

         五十八

「丑《うし》の刻《とき》まいり」というのは、古い記録によると、嵯峨天皇の御時代からはじまる。その時代にある公卿《くげ》の女が、何か人を恨めることがあって、貴船《きふね》の社に籠《こも》り、嫉《ねたま》しと思う女を祈り殺そうとしたという古伝があるが、その古伝によると、女は人無きところに籠り、長《たけ》なす髪を二つに分けて角《つの》に作り、顔に朱をさし、身に丹《たん》を塗り、鉄輪《かなわ》をいただいてその三つの足に松をともし、松明《たいまつ》をこしらえて、両方に火をつけ、口にくわえて、夜更け人定まって後、大和大路へ走り出で、南を指して行くところ、頭からは五つの火が燃え上り―
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